ッセルが、夕方になると、そんな様子で休んでいるのを度々みたのでした。輪廓の具合や影の描き方など、誰におそわったでもないけれど、ネルロは自分の考え一つで、さも老いぼれた、つかれた老人を描きました。宵闇がせまって来る暮れどき、倒れた樹に腰を下して、あらゆる世の苦労をなめつくしたようなつかれたかおつきで、じっと思い沈んでいるこの老いた樵夫の様子は、全く詩の趣きがありました。もとよりその画は素人らしく、欠点もありますが、しかし、ほんとうに自然な素直《そっちょく》な画です。いかにも、かなしさに咽《むせ》んでいるようで、ある美しささえ持っています。パトラッシュはいつも、何時間でも動かずにこの画ができ上っていくのをながめていました。そして、ネルロの心に希望が燃えているのをさとりました。その希望と言うのも、おそらく、向う見ずな、無駄なことかもしれませんが、ネルロはこの画を出品して、年額二百フランの賞金を得るために競争してみようとしているのです。そのころ、アントワープの町では、十八才以下の天分ある少年は、身分にかかわらず、鉛筆画か木炭画の自作の作品を出して、その中《うち》一枚だけがえらばれてこの賞金をもらうことになっていました。ルーベンスに縁の深いこの町では、一流の画の大家が三人審査員になって、それらの作品の優劣をきめることになっていました。
春と夏と秋を打《ぶ》っ通して、ネルロはこの大作の完成に余念がありませんでした。もしこれがうまく栄冠を担えれば彼にとっては、年来の宿望に向って第一歩をふみ出すことになるのです。ネルロはこの企てを誰にも言いませんでした。おじいさんに言ったところで分ってはもらえないし、それはアロアは、もう彼にとって、ないも同じでした。打ち明けるのはただ犬のパトラッシュだけ。そうしていつも、
「ああルーベンス、ルーベンスの魂が知っていたら、きっと僕をえらび出してくれるのだが。」とつぶやくのでした。パトラッシュもまた、こんなことを考えていました。ルーベンスと言う人は、きっと犬を愛していたにちがいない。もし犬を深く愛していたんでなければ、あんなに正しく、美しい、犬が描けるものではないと――。
出品する画は、いずれも十二月の一日に運ばれて、その月の二十四日に結果が発表されることになっていました。で、もしうまく、入選すれば、クリスマスには二重のよろこびを持てるわけでした。身を切るような寒風の吹き荒《すさ》ぶその日、ネルロは波打つ胸をおさえて、いよいよでき上った苦心の画を、牛乳車にのせて、パトラッシュと一しょに、町へ運んで行きました。そして、きめられた通りに展覧会の入口のところにおきました。
「大抵だめだろう――僕には分らない――。」
ネルロは、妙に臆病になって、なにか、胸がいたいほどでした。画はおいて来たものの、考えてみれば、ずいぶん向う見ずな話です。靴下もないようなこの貧乏な子供が、自分の名さえろくろく書けない無学の身で、はずかしくもなく、そんな一流の大家たちに、自分の画を見てもらうなんて――
だが、ネルロは、大寺院に近づくにつれてだんだん元気をとりもどしました。威厳のある王様のようなルーベンスの姿が、暗い中からすっと浮んで来て、ネルロに微笑みかけ、ささやくようにおもわれたからです。
「気を落してはいけないよ。私だって、アントワープに名を残すようになったのは、決して、弱い心ではできなかったことだよ。」
冷たい夜を、ネルロは、わが心をはげましつつ、かえって行きました。彼は全力をつくしたのです。あとはもう、神様の御心に任せる他ありませんでした。
その夜、ネルロが家へかえってから雪が降り出し、幾日も幾日もふりつづきました。田も畑もあぜみちも、すっかり雪にうずもれてしまい、川という川はみんな、かたく凍りついてしまいました。もうこうなると、牛乳を持ちまわるのは、実に辛いのでした。吹きさらしの野、夜明けの暗い人気のない町は、よけい寒さがこたえるのでした。殊に犬のパトラッシュは、少年が年毎に次第に力を増して行くのに反し、ますます老いぼれて行くのみで、骨の節々が硬《こわ》ばって来てはげしく疼いて苦しいのでした。
「パトラッシュ、お前はもううちでねておいでよ。お前ももう隠居してもいい頃だ、大丈夫、僕ひとりで車はひけるから。」と、ネルロが無理にも止めようとしたのは、一朝《ひとあさ》や二朝《ふたあさ》のことではありませんでした。が、パトラッシュはききません。毎朝、起きると、彼はちゃんと梶棒のところへ行っています。そして、今まで長《なが》の年月通い慣れたその野道を、雪を蹴って、進むのでした。ただ少年に、以前より手数をかけるのは、牛乳車の輪が、凍った轍の跡にはまって、動きのとれない時、後から棒をさしこんでもらうだけでした。これだけ、昔より力がおとろえたのです。
「死ぬまでは休息と言うことはない。」パトラッシュはいつもこうかんがえていました。が、ときどき、ふっと、その最後の休息が、間近に迫って来たようにかんじられて、なんだか目が前ほどはっきり見えなくなったし、教会堂の鐘が五つ鳴って、パトラッシュに、起きて働かねばならぬ時が来たと知らせると、ぱっとはね起るのに変りありませんが、それが前とちがって、非常な苦痛にかんじられるのです。
「かわいそうなパトラッシュ。お前も、わしと一しょに、安楽往生をするのかい。」
ジェハンじいさんは、やせこけた皺だらけの手で、犬の頭をなでました。このおじいさんと老犬とは、いつも、パンの皮を分けてたべました。そしていつも同じ心で、年を取るのを嘆きつつ行末《ゆくすえ》のことを案じ合うのでした。お互いが死んでしまったら、あとに残るあの可愛いネルロはどうなるでしょう。
ある日の午後のこと、少年と犬とが、アントワープからのかえりみちでした。雪は凍って、まるで大理石のようにひろい野原にしきつめていました。ふと足許を見ると、可愛らしい人形が落ちていました。五六寸の、たいへん美しい太鼓叩きの人形で、ちっとも傷のついていない立派なおもちゃでした。ネルロは拾い上げて、いろいろ探してみましたが、落し主が分らないので、それをアロアにやったら、さぞよろこぶだろう、とかんがえました。落し主が分らないのだから、それを長い間の仲よしにやっても、別にわるいことではあるまい、と彼は思ったのでした。
ネルロが粉挽屋のところを通った時は、もうしずかな晩になっていました。アロアの部屋の小さい窓はよく分っています。その窓のすぐきわから斜下《ななめした》につき出た屋根、彼はその屋根によじのぼって、しずかに窓をたたくと、中で小さな灯《ともしび》がつきました。アロアは窓をあけてびっくりしました。ネルロは太鼓叩きの人形をアロアの手に握らして、小さな声で口早に言いました。
「アロアちゃん、お人形だよ。雪の上で拾ったの。とっておおきなさいよ、ね、神様が下すったんですもの。」
ネルロはするすると屋根をすべりおりて、アロアが、ありがとう、と言う間もなく、闇の中に消えてしまいました。その夜、粉挽場が火事になって、水車場と母屋だけは助かりましたが、納屋と沢山の麦がやけました。村中は大へんなさわぎで、アントワープからは、雪を蹴立てて、蒸気ポンプがかけつけて来ました。さいわい、保険がつけてあったので、大した損害にはなりませんでしたが、主人のコゼツは、かんかんに怒って、この火事はあやまちからではなく、きっと誰かが、つけ火をしたにちがいないと、どなりました。この時ネルロも、円《まろら》かな夢を破られて、びっくりしてかけつけて来ましたが、コゼツの旦那は荒々しく彼をつきのけて、腹が立ってたまらないように、
「貴様は宵にここらをうろついていたな。俺はちゃんと知っているぞ、貴様こそ今夜の火事には一番覚えがあるはずだ。」と怒鳴りました。ネルロはあまりのことにぼんやりしてしまって口が利けませんでした。場合が場合だから、聞いている人は、それを冗談だと聞きすごしてくれないだろうと、全く途方にくれてしまいました。
粉挽屋の主人は、翌日になっても、近所の人の前で大っぴらにこの言葉を口にしました。すると中には、ネルロがその夜、別に用もないのに粉挽場の辺をうろうろしていたの、アロアと遊ぶことを断られたので、ネルロがコゼツの旦那を恨んでいたのと、蔭口をきく者も出て来、その上何とかしてこのお金持に取入って、その一人娘を息子の嫁にもらい、財産にありつこうと言う腹ぐろい人達も交って、ジェハンじいさんの孫は、全く可哀想な立場におかれてしまいました。
村の人達は誰もまさか、コゼツの旦那の言葉を、信じるわけではないのですが、何しろ、狭い村のことではあり、村一番のお金持の気に逆っては何かと自分たちの損ですから、あんまり親切そうにしているところをコゼツの旦那に見られては面倒だと、みんな、申し合せたように、ネルロを避けるようになってしまったのでした。ですから、それからは、ネルロとパトラッシュが、毎朝アントワープへ運んで行く牛乳の御用を聞きにまわっても、牧場主たちは、以前のように、何かと親切に計らってくれず、素気ない態度で、あまり口も利いてくれないのでした。
粉挽屋のおかみさんは、涙ぐんで、おそるおそる主人に言いました。
「あなた、それではあんまり可哀想ですわ。私、あの子が気の毒でたまりません。あの子はほんとに、無邪気な正直者ですもの。いくら、くやしくかんじたことがあったとしたって、ゆめにもあんな大それた悪いことをするような子ではありませんわ。」
けれどもコゼツの旦那は一徹者ですから、一度、自分の口から言いふらしたことは、是が非でも、押し通さねばすまないのでした。たとえ、心の奥底で、悪かったが、と気がついて居りながらも、あわれなネルロ、いかに身が潔白なればかまわないとは言え、そこはまだ子供です。
「なあに。僕の画さえ入選したら、村の人達だって、すこしは僕に同情してくれるだろう。」と気をとりなおしとりなおしても、パトラッシュとたったふたりでいる時など、止めようもない涙があふれ落ちるのでした。全く幼い時から会う人毎に可愛がられ、ほめられて大きくなった身が、突然あられもない汚名をきせられ、その頼りにしていた世間の、打って変った冷たい素気ない態度を堪えしのんで行くことは、死にも勝る苦しみでした。雪がふりつづき、村の人達はみんな炉ばたに集まるのに、ネルロとパトラッシュは除者《のけもの》で、もう用はないのです。隙間の多いあばら家に、ふたりはしょんぼりとおじいさんのお守りをする。炉は、いつしか火が消えて冷たく、食卓の上には、食べもののない時がつづくのでした。それもそのはず、近頃アントワープから驢馬を仕立てて、毎日牛乳を買い出しに来る商人があらわれたのです。そうして、少年をあわれんで、その商人の牛乳を買わず、緑いろの小さな牛乳車を待っていてくれる家は、ほんの三、四軒に減ってしまい、そのために、パトラッシュが曳かねばならぬ車の荷は軽くなったものの、ネルロの財布に入る端金《はしたがね》はいよいよわずかになってしまったのでした。
犬は、いつも止る家の前には、ちゃんと車を止めますが、その門は、もはや彼等のためには開かれませんでした。あわれみを乞うようにじっと見上げる犬の眼は、見る人の胸を打ちましたがみんなむりに目をつぶって心を鬼にして閉め出すのでした。パトラッシュは、力なく空車《あきぐるま》をひいて行きます。誰だって、人情のないものはありませんが、コゼツの旦那の気にさわるのをおそれたからでした。
いよいよクリスマスは近づいて来ました。寒さは一そうきびしくなり、雪は六尺も積もり、氷は、牛や人間が、どこをふんでも大丈夫な程厚くなりました。この季節が、このあたりでは一番たのしい時なのです。どんな貧乏な家にも、あたたかなおいしい御馳走やお菓子が用意され、ストーヴの上には、スープ鍋が、さもうまそうに湯気を立てていて、部屋は色美しくかざられて、たのしげな笑声《わらいごえ》がもれるのでした。馬という馬はみんな鈴をつけられ、その音が、いたるとこ
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