女は困るというのじゃ、ばかな。」と、主人はパイプをテーブルに打ちつけて、
「あの子供が何じゃ、乞食じゃないか。おまけに画家になろうなどと自惚れているからなお始末が悪い。これ、よく注意して、もう決して遊ばせてはならんぞ。」
 おかみさんは、ネルロを可愛がっていましたが、気の弱い人だったので、そのままだまって、主人のいうとおりにすることにしてしまいました。けれども、母親として、娘が一番仲よくしている友達と裂こうということもできず、主人としても、貧乏ということ以外には何一つ欠点のない子供に対して、そうむごいことをしむけることもできませんでした。が、わざわざそんなことをしなくても、コゼツの目的は達せられました。
 ネルロは男らしく、しずかで感じ易い少年でしたから、もうそれ以後はあきらめて、たといひまがあっても、丘の上の赤い風車の方へは、足をはこばなくなったのでした。なにがあんなにコゼツの旦那の気にさわったのか、ネルロには分りませんでした。ただ大方、牧場《ぼくじょう》でアロアを写生したことがいけなかったんだろうと思っていました。で、時として、アロアが彼をみつけてとんで来て、手にすがりつくことでもあると、彼はかなしげにほほえんで、いろいろとなだめるのでした。
「ね、アロアちゃん。お父さんの御きげんを悪くしないで下さいね。お父さんは、僕があなたを怠け者にでもするようにおもっていらっしゃるんだからね。だから僕と一しょに遊ぶのがお気に入らないんでしょう。でもお父さんはいい方で、ほんとにあなたを可愛がっていらっしゃるんだから、僕たちは、御きげんを損ねるようなことをしてはいけない。ね、アロアちゃん。よく分ったでしょう。」とは言えそれは、かなしさ、さびしさをおさえぬいた言葉でした。
 ネルロにとっては、微風《そよかぜ》にそよぐポプラ並木の朝の景色も、もはや以前のように、たのしげに晴々しくは見えませんでした。その古ぼけた赤い風車は、ネルロにとっては一つの目印で、そこまで来ると、一休みするのがきまりでした。そして、往きにもかえりにも、水車小屋の人達に元気よく挨拶すると、その低い水車小屋の木戸の上にアロアの金髪がちらとゆれて、やがて、アロアの小さなもみじのような手に、パトラッシュの御馳走のパンの皮や魚の骨などが持って来られるのが常でした。――が、いまは――パトラッシュはふしぎそうな目つきで、木戸がかたく閉じられてあるのをながめます。少年はさっさと通りすぎて行くが、その心の中では辛いのでした。
 アロアは窓の中で、編ものをしている手に、ほろっと涙を落す。主人のコゼツは、粉袋や粉挽機械の間をせっせと働きながら、いよいよ心をかたくなにして独言《ひとりごと》を言うのでした。
「こうして離しておく方がいいのじゃ。あの子供はどうせ乞食みたいで、その上画家になろうなどと、とんでもないばかげた夢を見ている。まかりまちがえば、こののちどんな不幸《ふしあわせ》が起って来るかもしれん、用心用心。」
 こうした間にも、れいの松の板ぎれは、粉挽屋の食堂のストーヴの上の置時計と十字架像の間に、大事そうにかざられてありました。ネルロはときどき、絵だけがこうも歓迎されて、それを描いた自分はなぜ除けものにされるのかしらと、かなしい、さびしいおもいを抱くのでしたが、ネルロは決して恨みがましいことは口に出しませんでした。ひとりずっと、心の中のかなしみに堪《こら》えているのが、彼の性でした。ジェハンじいさんは、よく彼に言い聞かせました。
「わし等は貧乏人じゃ、何でも神さまが下されたものをそのままお受けせねばならぬ。それにはよいことも悪いこともあろう。だが、貧乏人は、えり好みをするのじゃない。」
 少年はだまって、おじいさんの言葉を聞いていました。彼はなんにもその言葉に逆いませんでした。しかし、
「いや、貧乏人だって、時にはえらばねばならぬこともある。えらくなる道をえらぶ、それを誰がいけないというものか。」
 ネルロはけがれない心に、一途にこう考えていました。
 ある日、運河のほとりの麦畑に、ネルロがたった一人で佇んでいると、ふとそれを可愛らしいアロアがみつけてかけ出して来ました。そしてネルロによりそいながら、しくしく泣き出すのでした。明日はアロアの誕生日なので、これまでなら、ネルロを招いて、おいしい御馳走をしたり、大きな納屋であそびまわったりして、たのしくすごせるはずなのに、今年に限ってお父さんもお母さんも、ネルロを呼んではいけないと言い渡されたのでした。ネルロはやさしく少女に接吻《キス》してそして、深く胸の中《うち》に決心したことをささやくのでした。
「ね、アロアちゃん、僕もいつかはきっとえらくなってみせますよ。やがて時が来れば、お父さんが持っていらっしゃる僕の描いたあの松の板ぎれだって、あの大きさの銀を出しても変えない程な値が出ますよ。そうなったら、お父さんだって、戸を閉めて僕を入れないようなことはなさらないでしょう。ただ、アロアちゃん僕を忘れないでね。忘れないで下さいね。僕きっとえらくなるから――」
「まああたしがあんたを忘れるって言うの、そんなこと言うならいいわ。」と愛らしく泣きぬれたアロアは、頬をふくらしてすねたように叫びました。その眼には、まごころがあらわれていました。少年はそれをみると胸がせまって、いそいで目をそらしました。遥か彼方には、宵闇にほの白く、あの旧教の大伽藍がそびえ立っていました。少年の顔には、一瞬間、何か崇高なかがやきがひらめきました。アロアはちょっとこわくなったほどでした。
「僕はえらくなる。」と、少年は深い息をして呟きました。
「アロアちゃん、えらくなれなかったら、僕は死ぬ。」
「死ぬんですって、じゃあたしを忘れてしまうのね。」と、アロアは少し苛立ってネルロを押しのけました少年は頭をふって、ほほ笑み、脊丈ほどもある、黄色に熟れた麦のかげを、家の方へかえって行くのでした。少年の目には幻が浮んでいました。――いまにきっと幸福《しあわせ》になれる時が来る。名を成して再び故郷にかえって来て、あらためてアロアのお父さんに挨拶したら、その時、お父さんはどんなに僕をよろこびむかえてくれるだろう。村の人達も僕を見ようとして集まって来て、あわれだった昔のことなど思い出し、よけいその成功をよろこんでくれるだろう。その時が来たら、ジェハンおじいさんには、あのセント・ジャック寺の中に描いてあるえらいお坊さんのように、毛皮や紫の着物を着せてあげて、その肖像を描いてあげよう。それから忠犬パトラッシュの頸には金の頸環をつけてやり、自分のすぐそばへおいて、集まって来る人々に、
「この犬が、前には私のたった一人の友達だったのです。」と紹介しよう。住む家は、あの大寺院の塔のみえる丘の上へ大理石の宮殿のようなのがいい。そこへ多くの貧乏な淋しいそして大きな望みを抱いている少年たちをあつめ、明るくたのしい生活を与えてやって、彼らをはげまし、もし彼らが自分の名をほめたたえるようなことがあれば「いや、私に感謝する程のことはない。ルーベンスに感謝しなさい。もしルーベンスがなかったら、私はなんにもなれなかったろう。」と言おう――こんな空想が、全く清らかにあどけなく、ほほえましく少年の胸を掩《おお》いつつむのでした。
 このアロアの誕生日の夜、ネルロとパトラッシュはうすぐらい小屋で、まずい粗末な夕食をとっていました。丁度その頃水車小屋の中では、村の子供たちがすっかり招かれて、明るい灯の下で、おいしいめずらしいお菓子や御馳走を頬ばりながら、笛や胡弓《こきゅう》に合せて、おどり狂っているのですから、ネルロにとっては、よい気持のしない日であるにもかかわらず、彼はよく堪えて、小屋の入口に犬と並んで腰かけ、
「ね、パトラッシュ。くよくよするのは止そうよ。」こう言いながらパトラッシュの頸をだいて接吻《キス》してやるのでした。粉挽場の方からは、たのしげな笑声《わらいごえ》がつたわって来ます。
「いいさ、いいさ。いまにだんだんかわって来るからね、辛抱おしよ。」
 少年は未来のことを確《かた》く信じていますが、パトラッシュはさすがに犬ですから、現在うまい肉の御馳走にありつけないことには、将来にどんなたくさんの御馳走を思い浮べてみても、それではつぐないがつかないのでした。で、その日以後パトラッシュはコゼツの旦那の姿を見れば、いまいましそうに唸り声をあげるのでした。

「今日はアロアさんの誕生祝いの日だろう。」とおじいさんは、小屋の隅っこの床の中から聞きました。少年はだまってうなずきました。おじいさんが、それをおぼえていたのが少年はどんなに切なかったでしょう。
「じゃどうしてお前出かけないんだい。」と、おじいさんはまた問いかけました。
「お前、いつの年だって行かないことはないじゃないか。」
「だって僕、おじいさんが病気だし――」と少年は、うつむいて言葉を濁しました。
「なんの、なんの、わしのことなら気にせんで行っといで。出がけにビュレットのおばさんに頼んで行ってさえくれればすぐ来てみてくれるよ。――ネルロ、お前どうしたんだ。まさかあそこのお嬢さんの悪口でもしゃべったんじゃあるまいな。」と、おじいさんはふしぎでならないのでした。
「いいえ、おじいさん。悪口なんか――」と、少年は口早に答えましたが、そのうなだれた顔はあかくなりました。
「なんでもないのよおじいさん。ただ、コゼツの旦那が、今年は僕を招《よ》ばなかっただけ。あの人、ちょっと僕に思いちがいをしてるらしいの。」
「だってお前、なんにも悪いことはしなかったんだろう。」
「それが、いいかわるいか、僕には分らないんです。僕は、アロアちゃんの顔を、松の板ぎれへ写生しただけなの。」
「ああそうか。」
 おじいさんはだまってしまいました。ネルロの無邪気な言葉を聞いて、おじいさんにはすっかりわけが分ったのです。老いぼれて、長い間、掘立小屋《ほったてごや》[#「掘立小屋」は底本では「堀立小屋」]の中にねたきりではありましたが、おじいさんは、まだ、世間がどう言うものかと言うことを、忘れてはいませんでした。おじいさんはやさしく孫の美しい顔を自分の胸のへんに引きよせて、
「お前は貧乏な子だからのう。」
 その声はかすれてふるえました。
「ほんとに貧乏なんだからのう。お前も辛い目を見るのう。」
「いいえ、おじいさん。僕は金持と同じよ。」と、ネルロはささやきました。実際のところ、ネルロはそう信じていたのです。自分は強い力を持っている。王様の力でもどうすることもできないほどの力を持っているように思えました。少年は立ち上って、再び戸口に佇みました。秋の夜はしずかで、高いポプラの枝が微風《そよかぜ》に揺らいでいます。空は夥《おびただ》しい星でした。少年は目をあけてじっとそれをながめました。粉挽屋の家の、窓という窓はあかあかと灯《ともしび》がもれて、時折、笛の音《ね》がひびいて来ます。涙が少年の頬をつたわりました。まだ何と言ってもほんの子供ですから、かなしいのでした。けれども、にっこり笑顔をつくって、
「なあに将来だ。」とひとり言を言いました。夜が更けるまで彼はそうして佇んでいましたが、やがてパトラッシュを抱いて床につき、さびしくもおだやかな眠りに落ちて行きました。
 さて少年には、パトラッシュのほか誰にも知らせない一つの秘密がありました。小屋には小さな次の間があって、そこはネルロだけが入るところになっていました。ひどく荒れた部屋ですが北側から光線が入ります。この部屋でネルロは、木片で無細工な画架をこしらえ、それに大きな紙を張り、そこへこれぞとおもうものをぜひ一つ描きあげようと一生懸命になっているのでした。ネルロは、誰にも画の描き方を教わったことはありません。むろん、絵具を買う余裕などもありません。ただ、白と黒の使い分けで目にうつるものを描くだけでした。いま、彼が木炭筆で描いたばかりの大きな画は、一人の老人が、倒れた樹に腰を下しているところ、ただそれだけです。少年は以前、年取った樵夫《きこり》のネ
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング