ゼラールは、いかなる場合にも自分の意志をとおすという、ほとんど病的に近い性癖を持っていることであった。
 カフェーへ行くと、中尉はきまって、友人の賛同を待たずに「ポンチ二つ」と、注文する。ガスコアン大尉の嗜好がなんであるか、何を望んでいるか、何を飲むことを要求しているかということは、ほとんどゼラール中尉の念頭にはないようであった。何か食う時にもまたそうである。「鶉《うずら》の蒸焼《むしやき》を二皿」とか「腸詰を二皿」とか、ゼラール中尉はいつも他人の分までも注文した。が、時々ガスコアン大尉がキュラソーの方を、より多く望んでいる時などに、
「僕はキュラソーを飲みたいものだがね」という希望を婉曲《えんきょく》に現すと、ゼラール中尉は、
「君! このカフェーのキュラソーはまるきりだめなんだよ。ここはポンチがうまいんだ。ここじゃポンチに限るんだよ」といいながら、彼はうまそうにポンチをすすってみせるのであった。こんな時にガスコアン大尉が強いてキュラソーを注文することは、二人の間のまだ基礎の浅い友情を傷つけることはもちろん、普通一般の社交の精神にも反することである。仕方なく大尉は、心のうちの不平を殺しながら、体《てい》よく自分の要求を曲げるよりほかに仕方がなかった。ガスコアン大尉にだんだんこういうことが分かった。それは、ゼラール中尉と一緒にいるということは、常に彼の意志や欲求のお相伴をするということであった。中尉は常に二人が行動するプログラムを作った。
「君、今夜はオペラへ行こう」とか、「今日はムーズ川の堤を散歩しよう」とかいうことを、彼は巧みに、しかも執拗に相手に強いた。しかもそれを拒絶することは、たいていの場合に友情を損なう危険を伴うていることが多かった。十日と経ち、二十日と経つうちに、大尉はゼラール中尉と交情を保っていくことは、自分の意志を中尉の意志の奴隷にするのと、あまり違わないことを沁々《しみじみ》と悟ってしまったのである。
 大尉はほんの僅かな会話にも、ゼラール中尉の意志――我意が自分を圧倒しようとかかってくることをよく感じたのである。
 ガスコアン大尉にとって、ゼラール中尉との交情が厭な荷物として、感ぜられるようになった動機の一つには、こんなことがあった。
 ある日、二人は例のごとくカフェー・オートンヌで葡萄酒を飲んでいた。二人の前の杯《さかずき》に、ゼラール中尉の注文によって注がれた酒は、地回りの葡萄酒で――収穫の僅かなベルギー産の葡萄から作ったものでかなり上品な味を持っていたが、パリに二年も留学して、そこのカフェー生活に耽溺《たんでき》したことのある大尉は、最初の一杯を飲み干すと、
「うまいことはうまいが、上等のボルドーにはとてもかなわないね」といった。これは平凡な事実をいったまでに過ぎなかった。が、ゼラール中尉は、
「いや、そりゃ君が一種の固定観念にとらわれているからだよ。実際のところ葡萄酒の味はベルギー産のものが第一なんだ。むろん産額の点じゃボルドーにはかなわないよ。が、量と質とはまったく別問題だからね」といいながら、ゼラール中尉は、ははははとわざとらしく哄笑した。
 中尉の性格を、よほど理解しかけていた大尉は、そのまま黙っていたかったのであったのだが、葡萄酒好きで、葡萄酒に対する鑑識を誇っている大尉は、どうしても中尉の独断的な反駁《はんばく》をききながすには堪えなかったのである。
「産額などはむろん問題じゃないよ。が、あのボルドーの上等! むろん一九〇〇年代の醸造じゃだめだよ。少なくとも、一八八〇年から七〇年|酒《しゅ》の味(大尉は、実際その味を本当に味わったことのある人だけがもらすような微笑をもらしながら)といったらまた別だよ。とてもこんな葡萄酒の味とは……」といいながら、少しの軽蔑を交えてそのベルギー産の葡萄酒の壜《びん》を打ち振った。すると、ゼラール中尉は、横顔を殴られたように、恐ろしく興奮してしまった。
「そういうことをいう君は、葡萄酒の真の理解者ではないね。この葡萄酒は穴蔵の中に千年しまい込んであったボルドーにだって負けることではないよ。いったいベルギーの地質がだね……」といいながら、彼は白仏《はくふつ》の地質比較論から、葡萄の栽培の適不適に及んで、地質の上からいっても、栽培法からいっても、醸造法からいっても、ベルギーの葡萄酒が上等だと主張した。その癖、ゼラール中尉は、自分がボルドーの上等を飲んだことがないことに気がついていなかった。大尉は少々ばからしくなった。世界の何人《なんぴと》にも認められている事実を、自分の意地から反駁している相手のばかばかしさを、憎《にく》むよりもむしろ憫《あわれ》む方が多くなった。彼は、もう少しもうまくなくなった葡萄酒を、幾杯も重ねながら、黙ってゼラール中尉の議論をきいていた。そ
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