。私は数学的な数の点からだけ云うのではありません。坂下鶴吉が宣告の日から、処刑の日迄、獄中でどんなに苦悶しても、彼の為に苦しんで居る数多くの人達の感情の十分の一をも、償うことは出来ますまい。殊に、不当に絞殺され不当に斬殺された被害者達の末期の無念と苦悶との百分の一をも償うには足りますまい。従って私は、坂下鶴吉の如き重悪人に、死刑以上の刑罰を課し得ないと云うが如きは、司法制度に於ける文明主義の欠陥でないかと思うのです。何等の理由もなく、責任もなく、何等の予期もなく、不当に不意に強盗に惨殺される被害者の断末魔のやるせない心外さ、限りなき苦痛、燃ゆるような無念を考うれば、死刑囚の苦しみの如き、余りに軽すぎると思います。自分の犯せる罪悪の為に、殺されるのですもの、其処には充分の諦めも付き、覚悟も定るだろうと思います。
が、現代の刑法の下には、私達は坂下鶴吉の死刑を以て、満足せざるを得なかったのであります。従って、私は死刑囚の苦痛と云うことを色々に、想像してやっと姉夫婦の惨死に対する無念を晴すことにして居ました。
どんなに兇悪な人間でも、国家の鉄の如き腕に依って禁獄され、不可抗力の死を宣告され、否やでも応でも死に対する覚悟を定めなければならぬ恐怖と苦痛とを想像したり、又日一日と処刑の日が近づくにつれ、生に対する執着が却って段々強くなり、必死に運命から逃れんとする無益な然しながら懸命の身悶えなどを考えると、私は姉夫婦の横死以来、鬱積して居た悲慣を漸く洩らすことが出来ました。
殊に、毎朝毎朝、今日は死刑の執行される日ではないかと、怖れおののく心持、執行の手続きをする為にいつ看守が扉を開きはしないかと期待する恐ろしい不安などを考えると、たとえ充分とは云えない迄も、ある程度迄は姉達の無念が償われると思うようになって居ました。
そうして居るうちに坂下鶴吉が死刑を宣告されてから、半年も経ったでしょう。私はある朝新聞で『夫婦殺し犯人処刑』と云う三号|表題《みだし》の記事に依って、愈々坂下鶴吉が此の世界から駆逐されたことを知りました。私は長い間の緊張から逃れたように、安易なホッとした心持を感ずると共に此の悪人に対しても、僅かな憐憫《れんびん》の情を催さないこともありませんでした。
私は之で万事了ったと思いました。私の心を長い間苦しめた憎悪の心も全く取払われて、私は普通の人間と同じようになだらかな平和な心持を持つことが出来るようになりました。私は再び現在の司法制度なり刑法なりに対し、ある感謝の心持を懐《いだ》かずには居られませんでした。
司法大臣閣下。
もし事件が此のままで終ったならば、私はかかる書状を閣下に呈出する必要は少しもなかったのであります。
ところが坂下鶴吉が処刑されてから一年も経った此の頃であります。私は新聞の広告に依って、ふと、『坂下鶴吉の告白』なる一書が、ある弁護士の努力に依って、上梓《じょうし》されたのを知りました。私は、坂下鶴吉なる人間の痕跡が世の中に公々然と発表されることが少し不快でありました。被害者の多くが彼の兇害なる打撃に依って、世の中から永劫に葬られ、墓穴の下に黙々たる無名の骨を朽ちさせて居るのにも拘わらず、坂下鶴吉の告白なるものがとにも角にも書冊の形式に依って公表され、彼が如何なる形式に於ても彼の思想を披瀝し得ると云うことは、私にとっては可なり不当のように思われましたが、そんなことはなんでもありません。私は『坂下鶴吉の告白』なるものを、読むに当って、私は国家の刑罰なるものが、此の男に依ってその効果を蹂躙され、彼は彼自身に適《ふさ》わしい恥多き苦しみ多き刑死を遂ぐる代りに、欣《よろこ》びに溢れ光栄に輝き凱旋的にこの世を去ったことを知って、私は憤忿の念に堪えないのであります。
彼の手にかかった被害者のすべてが、無念の中に悲憤の中に、もだえ死、もがき死んだにも拘わらず彼坂下鶴吉は、欣々然として絞首台上に立ち、国家の刑罰そのものに対してなんらの恐怖を示さず、何等の羞恥をも示さず、自若《じじゃく》として死んだことを知って私は実に憤忿の念に堪えないのであります。しかも典獄なる人までが、その最後の情景を叙べて、『罪の重荷を投げ下して、恋しき故郷に旅立ち帰る心持にて、喜色満面勇み立ったその姿は、坐《そぞ》ろに立会の官吏達を感歎せしめざるはなかったと申します』云々と、まるで決死隊の勇士を送るような讃嘆の言葉を洩して居ます。もしも私の義兄の角野一郎、此の坂下鶴吉に後手で縛り上げられ、絞殺されてもがき死んだ私の義兄の角野一郎が、此の処刑の情景を見たらばなんと申しましょう。自分の目前で夫を絞め殺され、相次いで自分自身を絞め殺された私の姉が、此の情景を見たらなんと申しましょう。彼等を殺した悪人が、彼等よりも十倍も百倍も幸福な死を国家
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