の同じ犯人に惨殺されたものだと云う感銘を受けずには居られません。母と姉とを非道に殺された私と父とは、不快なあさましい記憶から絶えず心を苛《さい》なまれながら、怏々《おうおう》としてその日を暮して居りました。『千葉町の夫婦殺し』と云う題目も段々世間からばかりでなく、警察当局者の記憶からも薄れて行ったと見え、犯人捜索に就いての消息なども、新聞紙上に一行も出ないようになりました。私と父とは、段々心細く思わずには居られませんでした。それと共に、かかる兇悪無残な悪徒を、逮捕し得ざる警察を呪い、またかかる悪徒の横行闊歩して居る世の中が嫌になりました。
ところが、時運到来と申すのでございましょうか。大正五年の十月でした。犯人|坂下鶴吉《さかしたつるきち》は――私は、その時初て姉を殺した兇悪な人間の名を知りました――警視庁の手に依って逮捕されました。なんでも挙動不審の為に拘引されたのですが、訊問の結果、多くの兇行を自白しました。その多くの兇行の中でも私の姉を殺した事件が、丁度烏の黒い身体の中でも、その兇悪な眼が一番怪しい光を放ったように、あの事件が一番恐ろしい光彩を放って居りました。『千葉町夫婦殺しの犯人捕わる』と、各新聞は報道しましたが、彼は此の事件ばかりの犯人ではありませんでした。新聞紙の報ずるだけでも、彼は十指に余る人間の命を絶ち、多くの子女の貞操を蹂躙《じゅうりん》し、数多《あまた》の良民をして無念の涙に咽《むせ》ばせて居るのでした。
父は、犯人逮捕の通知を、警察署から受けると久し振に晴々しく笑いました。そして、
「之でおとしも、お信も浮ばれるわい」と、申して非業に倒れた娘と、悲嘆に死した妻とを弔うて居りました。その夜は、仏壇に燈明《とうみょう》を灯して、姉と母との霊に、犯人逮捕の欣《よろこ》びを告げました。
私は、初て現代の日本の警察制度に感謝しました。そして、天網疎にして洩さずと云う古い言葉にも、深い人間の世の摂理を知ったように思いました。
私達が坂下鶴吉の公判の経過に至大の注意を払ったのは、勿論でありました。が、遉に恐ろしい悪党であるだけに、諦めもよいと見え、地方裁判所で死刑の宣告を受けると、控訴もしないで、大人しく服罪しました。その判決のある日でありました。私は、私達の一家の運命に、残虐な打撃を与えたその男の顔を、一目見たいと思って、わざわざ傍聴に参りました。
あの公判延の被告箱の中に、傲然として起立して居る男を見ました時、私は姉夫婦の惨死の光景を見た時と同じような戦慄を感ぜずには居られませんでした。骨組の如何にも逞《たくま》しい身体、眼は血走って眉毛は飽く迄も濃く、穢悪《あいあく》な大きな低い鼻と云い、太く横に走った唇と云い、人間の獰猛な獣性が、身体全体に溢れて居るような男でありました。こんな男の手にかかっては、あのかよわい姉夫婦は一溜りもなかったのも無理はないと思いました。
が、遉に獰悪《どうあく》らしいこの男も、裁判長の厳かな死刑の云い渡しを受けると、顔の色をサッと易《か》えて、頭を低くうなだれました。私は、正当な刑罰が、否彼の犯した罪悪に比ぶれば軽過るが、然《しか》し現在の刑法では極刑に当る刑罰が宣告され、その男が刑罰に対する、相当な恐怖を感じた時、私は初めて、私の限りなき憤忿の心が和らげられたのを感じました。が、私の本当の感情から云えば、まだまだ之位の事では、私の憤や恨は充分に晴らされたとは思いませんでした。
私は死刑と云うことが、かかる場合に充分な刑罰であるか、どうかを考えて見ました。此の坂下鶴吉は、私の姉夫婦を加えて、丁度九人の人間の命を奪って居ます。が、彼が奪って居るものは単に九人の被害者の生命だけではありません。私の姉が殺されたに付いて、私の母の怖ろしい精神上の打撃を受けた如く、他の八人の被害者の父なり母なり兄弟なり姉妹なりが同じように怖ろしい打撃を受けて居るに相違ありません。九人の被害者の為には、四十人五十人の肉親の者が親なり子なり兄弟なり姉妹なりを殺された無念の涙に咽《むせ》んで居る筈です。生命を奪われると云うことも人生の悲惨事には相違ありません。が、肉親の父なり母なり子なり兄弟姉妹なりを、なんの罪なくして絞殺され斬殺されるのを見、それから受けた怖ろしい激動を、生涯持ち続けて行くと云うことも、同様に人生の悲惨事であります。殺人の場合、被害者は単に殺された当人だけではありません。その被害者の親なり手なり兄弟なり姉妹なりは命こそ奪われないが、精神的には恐ろしい打撃を受けるのです。坂下鶴吾が殺したのは、僅か九人かも知れません。が、彼の兇悪な所業の為に苦しんで居るのは、私達親子の者ばかりではありますまい。そうした点から、考えて行くと、死刑などと云うことは軽すぎる位、軽いと思います。九つの命と一つの命
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