た筈の坂下鶴吉は、そうした罪悪を犯した事が却って懺悔の材料となり、天国へ行けると云うことは、少くとも私にとっては奇怪至極な理窟のように思われます。まるで、坂下鶴吉に殺された者が、脚台になって此の悪人を――基督教的には聖徒を、天国へ昇せてやって居るようではありませんか。基督教徒が、彼等の教旨の為にどんな事をしようが、それは彼等の勝手で、彼等の方には充分な埋窟があるかも知れませんが、現世的な刑罰機関の長《おさ》たる典獄迄が、その便宜を計り、それを奨励するに至っては、被害者達の魂は浮ばれようもないではありませんか。
昔、ある伊太利《イタリー》人は『愚人聖職に上り、ガリレオ獄中に在り』と云って嗟嘆《さたん》したそうでありますが、もしも天国の存在が本当だとすれば、『加害者天国に在り、被害者地獄に在り』です。宗教の立場から云えば、現世的な法律的な区別は、どうでもいいのでしょうが、国家の司法当局が、その現世的な職務を忘れ、『加害者を天国に送る』事を奨励し、讃美するに至っては、私の如き被害者の遺族は、憤懣に堪えないのであります。
況《いわ》んや、その信仰の告白を発表し、国家の刑罰機関の効果が、キリスト教の信仰によって蹂躙されたことを公表し、併せて被害者の遺族の感情を傷つくることを許すに至っては、司法政策の上から考えて如何なものでございましょうか。『刑罰の目的は改過遷善に在り』など云う死刑廃止論者などは、自分の妻なり子なりを強盗にでも殺されて見れば、私の憤慨がどんなに自然であり、正当であるかを了解するだろうと思います。
私はこの書状を了るに当って、はしなくも坂下鶴吉の逮捕を見ずして、娘を殺された悲しみに倒れた私の母の事を思い出しました。母は、死際に「あんな極悪な人間は、この世では捕まらんでも死んだら地獄へ落ちるのじゃ。地獄で、ひどい目に逢うのじゃ」と申して居りましたが、母の考えなどとは丸切り違って、坂下鶴吉は(典獄や弁護士などはこう呼んで居る以上、どんな極悪人でも改心した以上罪人扱いには出来ないかも知れません)この世で捕まった代りに、先きの世では天国へ行ったことになって居ます。私は、母の愚かな期待を思い出すごとに、彼女の無智を憫む潸々《さんさん》たる涙を抑えることは出来ません。
[#地付き](〈中央公論〉大正八年四月号)
底本:「日本探偵小説全集11 名作集1」創元推理文
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