。
あの公判延の被告箱の中に、傲然として起立して居る男を見ました時、私は姉夫婦の惨死の光景を見た時と同じような戦慄を感ぜずには居られませんでした。骨組の如何にも逞《たくま》しい身体、眼は血走って眉毛は飽く迄も濃く、穢悪《あいあく》な大きな低い鼻と云い、太く横に走った唇と云い、人間の獰猛な獣性が、身体全体に溢れて居るような男でありました。こんな男の手にかかっては、あのかよわい姉夫婦は一溜りもなかったのも無理はないと思いました。
が、遉に獰悪《どうあく》らしいこの男も、裁判長の厳かな死刑の云い渡しを受けると、顔の色をサッと易《か》えて、頭を低くうなだれました。私は、正当な刑罰が、否彼の犯した罪悪に比ぶれば軽過るが、然《しか》し現在の刑法では極刑に当る刑罰が宣告され、その男が刑罰に対する、相当な恐怖を感じた時、私は初めて、私の限りなき憤忿の心が和らげられたのを感じました。が、私の本当の感情から云えば、まだまだ之位の事では、私の憤や恨は充分に晴らされたとは思いませんでした。
私は死刑と云うことが、かかる場合に充分な刑罰であるか、どうかを考えて見ました。此の坂下鶴吉は、私の姉夫婦を加えて、丁度九人の人間の命を奪って居ます。が、彼が奪って居るものは単に九人の被害者の生命だけではありません。私の姉が殺されたに付いて、私の母の怖ろしい精神上の打撃を受けた如く、他の八人の被害者の父なり母なり兄弟なり姉妹なりが同じように怖ろしい打撃を受けて居るに相違ありません。九人の被害者の為には、四十人五十人の肉親の者が親なり子なり兄弟なり姉妹なりを殺された無念の涙に咽《むせ》んで居る筈です。生命を奪われると云うことも人生の悲惨事には相違ありません。が、肉親の父なり母なり子なり兄弟姉妹なりを、なんの罪なくして絞殺され斬殺されるのを見、それから受けた怖ろしい激動を、生涯持ち続けて行くと云うことも、同様に人生の悲惨事であります。殺人の場合、被害者は単に殺された当人だけではありません。その被害者の親なり手なり兄弟なり姉妹なりは命こそ奪われないが、精神的には恐ろしい打撃を受けるのです。坂下鶴吾が殺したのは、僅か九人かも知れません。が、彼の兇悪な所業の為に苦しんで居るのは、私達親子の者ばかりではありますまい。そうした点から、考えて行くと、死刑などと云うことは軽すぎる位、軽いと思います。九つの命と一つの命
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