お母さんがいないから、お家でご馳走することが出来ない。これで我慢するんだよって……。私、ご馳走なんかちっとも欲しくないんです。ただ、何時迄もひとの家の厄介者で、邪魔っけにされているの、急に我慢が出来なくなってしまったんです。
章介 お前、お父さんの戦死した場所を知ってるかい。
けい よくは知らないけど、大東溝っていうところですって。
章介 大東溝、それじゃ俺達の通って来た所だ。お父さんの名前は何ていうの。
けい 布引勝一。
章介 布引勝一? 知らんな。何ていう隊にいたか。そんなこと知らないかね。
けい 知らないわ。私、まだ小さかったんですもの。
章介 ふむ……姉さん。戦争のおかげで一代に産を成し、あなたのように子供から誕生日を祝って貰う人もあり……同じ戦争で父を失い誕生日に町を彷徨する者もあり……さまざまですね。
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間。
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けい ねえ。おばさん。後生だから私を、お巡りさんへ渡すのだけは堪忍して頂戴。もう、これからは決して他所の家へ黙って入ったりなんかしませんから……。
しず 大丈夫ですよ。おばさんは、あなたを警察なんか渡しゃしません。ですから早くお家へお帰んなさい。お家じゃきっと心配してらっしゃいますよ。
栄二 家じゃ心配なんかしてないかもしれませんよ。
しず 何を言うのです。家のものがいなくなって心配しないお宅があるものですか。
栄二 だって……その子の家は……。
しず 子供を育てるってことはねえ。育てられた当人が思っているほど、そう簡単なものじゃありませんよ。自分のお腹を痛めた子供を育てるのだって、時には、もうもうどうしていいかわからないほどつらく、情ないことがあるものです。まして、例《たと》え親類にもせよ、他人の子供を育てて下さったということは、並大抵のことじゃありませんよ。それから又、人ってものは、その辺にごろごろしてる時は邪魔になったり、厄介者に思ったりしていても、さていなくなるとやっぱり惜しいことをした、可哀想なことをした、そういう気になるものですよ。あなたのおばさんにしても今頃はきっとあなたのことを心配してあなたの行先を探してらっしゃるに違いありませんよ。悪いことはいいませんから、もう他所へ行かないでお家へお帰りなさい。ね。
けい (頷いて)帰ります。
しず あ。わかりましたね。よかったよかった。それじゃわき道しないで真直《まっす》ぐに帰えるんですよ。あの誰か送って上げましょうか。
けい いいえ、一人で大丈夫です。
しず そうですか。それじゃ気をつけてね。又お昼にでも暇があったら遊びにいらっしゃい。おばさんのおゆるしをいただいてね。
けい 御免なさい、さようなら。
しず さよなら。気をつけてね。
栄二 おい、待ちたまえ。(と追っかけて)これ、君に上げるよ。(と先刻の櫛を渡す)さ。
けい (黙って受取ってみているが、やがて又しくしく泣き出し、そのまま坐ってしまう)
栄二 君、君、どうしたんだい。
章介 どうしたんだね。え。
けい 私、帰れないんです。帰るところないんです。
しず まあ、どうして? あなた、おばさんのお家を黙って逃げ出して来たんでしょ。
けい 私が抜け出したの、おばさん知ってるんです。私がそうっと裏へ出て木戸をしめようとしたらおばさんが家の中から、大きな声でもう二度と帰ってくるんじゃないよって……。
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泣き倒れてしまう。
四人、顔を見合せている。
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[#地から2字上げ]幕

     第二幕

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明治四十二年春。

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座敷はすっかり日本間になっている。桃割に結った、けいが、縁の拭き掃除をしている。縁の所に伸太郎がしゃがんで画帖をひろげ、花か何かを写生している。
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伸太郎 (それが癖の静かな調子で)われわれは小さい時から漢字というものを習ってきている。同じ漢字を使った清国の文章くらいわけなく読めると、普通に思っているらしいけれど、清国人とつき合う上で一番むずかしいことはこの同じ文字を使っているということなのだよ。同じ日本語を話していても僕の家とお前の家とじゃ、随分家の風も人間の気質も違うように、日本語と清国語とでは言葉の順序もその成立ちもまるで違うのだからね。
けい でも、こちらのようにいつも清国の人とお取引をなすっていらっしゃれば、向うの言葉もよくおわかりになるんでしょう。
伸太郎 さあ、取引ということは結局お互に自分に必要な用だけを足すことだからね。用事が足りたから言葉が分るか、といえばそれはどうだか
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