しず、章介(その弟少し跛足《びっこ》)
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章介 勿論《もちろん》嬉しくないことはありませんよ。私だって、日本人ですからね。ただ少し騒ぎが大袈裟《おおげさ》すぎると思うんです。これで戦争に勝ったというわけじゃないのですよ。
しず それはそうですがねえ。勝った時は勝った時で、又お祝いをすればいいじゃありませんか。旅順が落ちたっていうことはそれだけで、充分お慶《よろこ》びしていいことだと思いますよ。
章介 私達が旅順を占領した時はたった一カ月でした。それでも私は自分の片足を埋めて戦いとったところだと思って有頂天でしたよ。ところがその年の暮には呆気《あっけ》なく遼東半島を清国《しんこく》に還付している。しかも今度はその、同じ旅順に半年の歳月と何十万の人命をかけているのです。
しず 誰もそうしようと思った人はないのですよ、皆が皆、最善を尽して、こうなるより仕方がなかったのです。
章介 そうですよ。だからこうなった結果より、こうなるより仕方のなかった次第の方を考えるべきだと思いますね。
しず 世間というものはこれでいいのじゃないのですか。誰もが始終世界の歴史について考えているわけにはいきませんもの。
章介 無責任にして健康なる民衆の智恵ですか。姉さんは自分の嬉しい日なもんだから今日は何でも良い方に解釈出来るんでしょう。
しず (笑って)あなたこそ何も、みんなが素直に喜んでいるものを曲ってとらなくてもいいと思いますね。
ふみ 叔父さまはなんでも、人が右っていえば自分は左といわないと気がすまないのよ。
章介 こらこら、そんな憎まれ口をきくともうお嫁に貰ってやらんぞ。
ふみ 結構でございますよだわ。あたしは叔父様のような不真面目な酔っ払いは嫌いなんですもの。
栄二 叔父さん、旅順が陥ちたってことは、戦争に勝ったことにはならないにしても、少くとも勝敗のわかれを決める決戦に勝ったことになるんじゃないのかしら。
章介 いや、戦争というものは一つ一つの戦闘が決戦だよ。一つの決戦が終ればすぐ次の決戦が控えている。此処《ここ》で勝ちさえすれば後はどうでもいいという戦闘もなければ此処で負けたからおしまいだという勝負もないさ。
栄二 すると、今の戦争は、まだまだ続くんでしょうか。
章介 続くとみていいね、去年の十月に浦塩《ウラ
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