…私を、この家のものになれと仰言しゃるのは伸太郎様の……。
しず そうですよ。お前はどうお考えだったの。
けい いいえ別に……。
しず 自分の子供のことを自分でいうのもおかしいけれどあの子は家庭の旦那様としては誰に比べても恥かしい人じゃないと思います。ただ人中へ出て激しい世の中を渡るのには何か欠けた、弱い所がある気がするのです。そこをお前に家の中から助けてやってほしいのです。
けい 困りますわ、そんなに……でも、伸太郎さまはお家のお仕事よりは、学校の先生のようなことの方が……。
しず 誰にだって自分一人の願いというものはあります。私だって子供は可愛いのです。子供のしたいようにさせてやりたい気持は誰にも負けません。けれどこれは私がさせるのではないのです。家がそうしろと命じるのです。わかりますか。
けい はい。でも私、奥さま……。
しず 子供に家を譲るということは、苗木を土地に植えつけるようなものです。親というものは取越し苦労なもので、添木《そえぎ》をしたり、つっかい棒をしたり。傍《はた》からみればそれほどまでにしなくともと思えることが親にとっては一生懸命なのですよ。わかってくれますね。
けい はい。それはよくわかっております。けれど……。
しず お前は先刻、私の恩を忘れないといってくれましたね、だったらどうぞ、私のためにでも、このことを承知しておくれ。ね。
けい はい。(泣いている)
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間。
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しず ほほほ。なんでしょう。二人共泣いてしまったりして。さあもう、話はすみました。他の者が不思議に思うといけません。彼方《あっち》へ行きなさい。
けい はい。(行こうとする)
しず お待ちなさい。その顔じゃ却《かえ》って変に思われるかもしれない。私が先にゆきますから、少し此処にいて顔を直して行った方がいいでしょう。今の話は折を見て私から皆に話します。お前はそのつもりでさえいてくれればいいのですからね。じゃあ……(出て行く)
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間、単調なピアノの音。
けい、帯の間から先刻の櫛を出し、ちょっとの間みているが思いきってぽっきり二つに折り庭へ投げ出し入ってゆく。丁度庭の奥から出て来た章介の足許にそれが落ち、章介はそれを手に
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