怪しいものだよ。ひとつの国の言葉がわかるということは、実はその国の文明と人間の特質を会得《えとく》するということなのだもの。
けい なんですか、そんなむずかしいことは私にはわかりませんわ。お商売をなさるのにそんなこと迄お考えになるのですか。
伸太郎 僕は、取引の役に立たせるために清国語の勉強をさせられたのだが、言葉の勉強が進むにつれて自分が商売にかけてはさっぱり役に立たない人間らしいということがわかってきて困るんだよ。三国志も水滸伝も僕にとってはもう手離すことの出来ないものだし、八大山人《はちだいさんじん》や石濤《せきとう》の絵についてなら幾らでも話すことがありそうな気がするが、種粕の相場や綿花の収穫については何の意見も方針もない。
けい 私は、こちらのようなお仕事、何だか大変面白そうで先のたのしみもある気がしますわ。この間、栄二さまに波止場へ連れて行っていただきましたの。船から荷物がどんどん積みおろされる所や、引渡しの立合の目の廻るような忙《いそがし》さや今迄みたこともない税関の交渉なんか、何もかも生き生きしていて、頭の中へ涼しい風が吹きこんでくるようでしたわ。
伸太郎 女のお前がなんだってあの騒々しい岸壁の景色にわくわくするのか、僕にはわからないなあ。
けい 岸壁の景色ばかりじゃありませんわ。私はお商売の電信を打ちに行ったり、銀行の交換所へ出かけたりすることも大好きですわ。みるもの聞くものが珍らしいせいかもしれません。私はお茶っぴいだからそういう男らしい仕事の方が好きなんですわ、きっと。
伸太郎 僕にはどっちかといえば学校の教師のような仕事がむいているようだ。日本人の生徒に清国語を教えるようなことでもいいし、清国人の子供を集めて日本語や日本の絵の話をしてやるような仕事でもいい。そういう仕事なら僕もほんとにたのしみな気がするのだが……。
総子の声 けいちゃん。けい!
けい はーい。
総子 (出て来て)けいちゃん、お前すまないけれどこれ千駄木の叔父さまの湯上りと肌着、明日|要《い》るかもしれないのだから今日中洗っておいて頂戴な。肌着の方は手をかけなくちゃいけないかもしれないから今夜にでもちょっとね。
けい はい。
伸太郎 (総子に)自分の頼まれた仕事を他人におしつけちゃいかんね。
総子 だって私、これから精三さんの所へ行こうと思ってた所なんですもの。叔父様ったら明日
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