いて)帰ります。
しず あ。わかりましたね。よかったよかった。それじゃわき道しないで真直《まっす》ぐに帰えるんですよ。あの誰か送って上げましょうか。
けい いいえ、一人で大丈夫です。
しず そうですか。それじゃ気をつけてね。又お昼にでも暇があったら遊びにいらっしゃい。おばさんのおゆるしをいただいてね。
けい 御免なさい、さようなら。
しず さよなら。気をつけてね。
栄二 おい、待ちたまえ。(と追っかけて)これ、君に上げるよ。(と先刻の櫛を渡す)さ。
けい (黙って受取ってみているが、やがて又しくしく泣き出し、そのまま坐ってしまう)
栄二 君、君、どうしたんだい。
章介 どうしたんだね。え。
けい 私、帰れないんです。帰るところないんです。
しず まあ、どうして? あなた、おばさんのお家を黙って逃げ出して来たんでしょ。
けい 私が抜け出したの、おばさん知ってるんです。私がそうっと裏へ出て木戸をしめようとしたらおばさんが家の中から、大きな声でもう二度と帰ってくるんじゃないよって……。
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泣き倒れてしまう。
四人、顔を見合せている。
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[#地から2字上げ]幕

     第二幕

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明治四十二年春。

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座敷はすっかり日本間になっている。桃割に結った、けいが、縁の拭き掃除をしている。縁の所に伸太郎がしゃがんで画帖をひろげ、花か何かを写生している。
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伸太郎 (それが癖の静かな調子で)われわれは小さい時から漢字というものを習ってきている。同じ漢字を使った清国の文章くらいわけなく読めると、普通に思っているらしいけれど、清国人とつき合う上で一番むずかしいことはこの同じ文字を使っているということなのだよ。同じ日本語を話していても僕の家とお前の家とじゃ、随分家の風も人間の気質も違うように、日本語と清国語とでは言葉の順序もその成立ちもまるで違うのだからね。
けい でも、こちらのようにいつも清国の人とお取引をなすっていらっしゃれば、向うの言葉もよくおわかりになるんでしょう。
伸太郎 さあ、取引ということは結局お互に自分に必要な用だけを足すことだからね。用事が足りたから言葉が分るか、といえばそれはどうだか
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