二十八日、京、伏見、山科、大阪、赤穂などに散在する同志と円山重阿弥《まるやまじゅうあみ》の別墅《べっしょ》に会合した上、いよいよ仇討決行の旨《むね》を宣言した。そして、自分も十月の末には江戸へ下るから、面々においてもそれまでに、二人三人ずつ仇家《きゅうか》へ気づかれぬよう内々で下向《げこう》せよと言いわたした。それを聞いて、義徒は皆|踴躍《ゆうやく》した。中にも堀部安兵衛は、大石と離れてさえ決行しようとしていただけに、明くる朝すぐに発足《ほっそく》して、潮田《うしおだ》又之丞とともに江戸に走《は》せ下った。この二人は、途中浜松の駅で、芸州へ流されて行く浅野大学の一行に出逢ったが、後難の相手の身に及ばんことを恐れて、わざとお目通りを願わないで、素知らぬ顔に行き過ぎてしまったと言われる。
横川勘平は円山会議に先立って、七月の末にはすでに江府へ下っていた。つづいて岡野金右衛門、武林唯七、それに毛利小平太の三人も八月の二十七日に江戸へ着いた。それに次いでは、吉田沢右衛門、間瀬孫九郎、不破数右衛門の三人が九月二日、矢頭右衛門七も単独にて同じく九月二日、千馬三郎兵衛、間重次郎、中田理平次は同月七
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