くま》なく討入の手筈《てはず》を定めた上、最後に退口のことを念頭に置いては、かえって心臆するかもしれない、しかし退いても一定助からぬ吾らの身である、申すに及ばぬ儀なれど、めいめい必死の覚悟にて粉骨砕身《ふんこつさいしん》すべきことと結んであった。これには二三質問も出た。が、入念な忠左衛門の説明に、一同満足して、異議なくそれを承認した。
それから当夜の各自の扮装《いでたち》、討入の諸道具についても話しがあった。これはそれまでにめいめいその準備《したく》をしていることではあるが、持合せのないもの、または当夜に限って必要なもの、たとえば槍、薙刀《なぎなた》、弓矢の類を始めとして、斧《おの》、鎹《かすがい》、玄能《げんのう》、懸矢《かけや》、竹梯子《たけばしご》、細引《ほそびき》、龕灯提灯《がんどうぢょうちん》、鉦《どら》というようなものは、かねてその用意をして平間村に保管してあるから、明日、明後日両日の間に、それぞれ取寄せておいてもらいたい。ただしそんなことから事の破れになってはならぬというので、人目に立たぬように、それに関与する人数から役割まで定めて、それぞれ言いわたされた。
こういう風に相談が多端《たたん》に亙《わた》ったために、頼母子講《たのもしこう》は夜に入ってようやく散会となった。散会となるや、安兵衛と勘平とは庄左衛門のことが気になるので、宙を飛ぶようにして林町の宿へ駈け戻った。小平太もその後に随《つ》いて走った。が、そんな時分に、駈落者がそこらにうろうろしているはずもない。安兵衛は取散らした荷物の間に坐って、机の抽斗《ひきだし》を開けては、しきりに小首を傾げ始めた。
「何か見当りませぬか」
「ふむ、金子《きんす》が少々足りないようだ。それに、拙者の小袖《こそで》も見当らない」
「なに、金子?」と、勘平と小平太もあわてて駈け寄った。
「いや、御安心ください。大石殿からお預りして、おのおの方にお渡しするはずの金子は、別にしまっておいたからだいじょうぶでござる。ただ手前の小遣い銭が少々|紛失《ふんしつ》いたした」
「それはそれは」と、二人ともしばらく開いた口が塞《ふさ》がらなかった。
「それにしても」と、勘平はまた猛《たけ》りたった、「何という卑劣な所業《しょぎょう》でござりましょう。脱盟して吾々の顔を潰《つぶ》すさえあるに、他人の金品まで盗んで逐電《ちくでん》するとは!」
「いやなに」と、安兵衛はしずかに言った。「浪人すれば、永い間にはそんな気にもなりましょう。どうせ吾々を見限って一列を脱けた人だ、追及するにも当るまい」
「じゃと申して、吾々の面目にも――」
「だからまあ、金のことはあまり言わぬようにいたしたい。吾々にあってもあまり役に立たぬもの、これから先生き延びる人にはなくてならぬものだからな。はははは」
「そういえば、そんなものでもござろうか、あはははは」と、勘平もいっしょになって笑ってしまった。
小平太は最初庄左衛門が脱盟したと知った時、ほとんどその訳が分らなかった。ああいう一徹な父親を持っている上に、平生《ひごろ》からずいぶん口幅ったいことも言っていた男が、この期《ご》に及んで逐電する! 彼にはどうしてもありうべからざることのように思われた。が、その一面においては、どういうものか、先《せん》を越されたというような気もした。自分ではまだ遁亡《とんぼう》しようとも何とも思っていなかった。けれども、心のどこかで、やっぱりそういう気のしたことだけは争われない。そして、庄左衛門が満座の中で諸士から罵倒《ばとう》されるのを聞いていた時、まあまあ自分でなくってよかったというような安心を覚えた。しかるに、今宿へ戻って検《しら》べてみると、庄左衛門は他人の金品まで持ち逃げしている! これは下司《げす》下郎《げろう》の仕業《しわざ》で、士にあるまじきことだ。こうなると、小平太ももう自分のことのような気はしなかった。いくら勘平が罵倒しても、他人のこととして平気で聞き流すことができた。そのために、彼はかえって救われたような気もした。
明くる朝安兵衛は、とにかくこのことはいちおう頭領にも届けておく必要があるというので、早朝から出かけて行った。その後で小平太は、一人|火鉢《ひばち》に向って、ぼんやり考えこんでいた。隣の座敷では、勘平が何やらしきりに書状を認《したた》めている。この間にひとつおしおの許《ところ》へ行ってやろうか、あの女に逢うのももうこれがおしまいだなぞと考えているうちに、隣の間から勘平が片手に書状を持って出てきて、
「ちょっと出かけるから留守を頼むよ」と言った。
実際、中村、鈴田、小山田とだんだん同宿の者が減ってきては、飯焚《めしたき》の男を除けば、もう小平太のほかに留守をするものもなかった。小平太はまた先を越されたな
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