わいな」
「ま、待て、待てと言ったら、少し待ってくれ!」と、小平太はすっかり周章《あわ》ててしまった。「そういちがいに言われても、わしにはお前を手に懸けることはできそうもないわい」
「え、何と言わしゃんす? そんならわたしゆえに未練が出るから殺しに来たとおっしゃったは、ありゃお前本気ではござりませぬかえ」
「いいや、本気じゃ、本気には相違ないが、殺せと言われて、現在かわいい女房、それも肚に子さえ宿ったというものを、そうやみやみと手に懸けられるものでない。ううむ、待て、わしは一人で行くと覚悟をした! お前はどうか後に残って、気の毒じゃが、その子を育てて行ってくれ」
 子どものことを言われて、おしおは思わず帯のところへ手を遣って、じっと頸垂《うなだ》れたまま考えこんでしまった。
「それにわしの死んだ後で、たとい忠義の士よ、お主《しゅう》のために命を捨てた侍《さむらい》よと、世に持囃《もてはや》される身になっても、わしの身寄りの者が誰一人それを聞いていてくれるものがないかと思えば、何となくうら淋しい気もする。なに、わしの兄はあっても、あれはもうわしの身寄りではない。身寄りといっては、お前一人だ。そのお前が後に残って、忠義の侍よ、あれを見よと、わしが世間から囃されるのを聞いていてくれたら、同じ死ぬにも張合があるというもの。わしは思いなおした。どうかわしの言うことを聞いて、後に生き残ってくれ!」
 おしおはやっぱり俯向いたまま、何とも言わなかった。小平太は気を揉《も》んで、
「な、わしの言うことは分ったろうな? 分ったら、どうか得心《とくしん》して、わしの言うことを諾《き》いてくれ、な、な!」と、女の背に手を懸けながら繰返した。
「そうあなたのお覚悟がつけば」と、おしおはようよう顔を上げた。「なるほど、わたしは後に残って、あなたの武名が上るのを蔭ながら見させていただきましょう。まだ海のものとも山のものとも分りませぬが、もしお肚の嬰児《やや》が無事に生れましたら、立派にあなたの跡目《あとめ》を立たせます。どうぞそれだけは安心して、後へ心を残さぬように、屑《いさぎ》ようお主の敵を討ってくださりませ」
「そうか、それでやっとわしも安心した」と、小平太は本当に安心したように言った。「なに、妻子を後に残して行くものは、わしばかりではない、同志の中にはいくらもある。わしだけが妻子に心を惹
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