れぞれ渡世の道を立てているが、吾々は仇討専門で、ほかに芸がないから日々喰い詰める一方である。願わくば、あまり見苦しき体《てい》になり下《さが》らぬうちに、一日も早く決行したい」といったような一節がある。これは浪士の実情をありていに道破したものといわなければならない。
 ところで、内蔵助自身は、どちらかといえば前者に属していた。彼は仇討連盟の盟主になった。しかも、その裏面においては、全然それと反向《はんこう》するような主家の再興に力を尽していた。あるいは主家の再興は再興、仇討は仇討で遣る気であったと言うかもしれない。しかし主家を再興した後で、仇討のできないことは、何人《だれ》よりも内蔵助自身一番よく知っていた。仇討をしなければ、同志を欺《あざむ》いたことになるばかりでなく、永く世の指弾《しだん》を受けるかもしれない。しかも、一国の重寄《じゅうき》に任ずる城代家老としては、主《しゅう》の恨みを晴らすということも大切であろうが、それよりもまず主家の祭祀《さいし》の絶えざることを念とするのが当然だと信じたのである。この信念の下《もと》に、彼は去年の暮に出府した際も、あらゆる手蔓《てづる》を求めて目附衆《めつけしゅう》へ運動もしたし、それから後も山科に閑居して、茶屋酒にうつつを脱かしていると見せながら、暮夜《ぼや》ひそかに大垣の城下に戸田侯(内匠頭の従弟《じゅうてい》戸田采女正氏定《とだうねめのしょううじさだ》)老職の門を叩いて、大学|擁立《ようりつ》のことを依嘱《いしょく》した事実もある。もっとも、そうした運動の奏効《そうこう》おぼつかないことは、彼といえどもよく承知していた。が、全然徒労に終るものとも思っていなかった。再興の望みが絶対になかったように思うのは、事後においてそれを見るからで、当時にあっては、四囲《しい》の情勢から見て、かならずしもその望みがなかったとは言われない。幕府がいったん取潰した家を再興した先例はいくらもある。ましてや、相手の吉良家に何のお咎めがなかった点から見ても、その渦中にあった浅野家の浪人どもには、今にも再興の恩命が下るように思われたかもしれない。
 とにかく、内蔵助からしてそういう気持であったために、正月の山科《やましな》会議では、持重派《じちょうは》が勝ちを制して、今年三月亡君の一周忌を待って事を挙げようというかねての誓約も当分見合せとなった
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