。そして、二月の初めには、一党の軍師といわれる吉田忠左衛門が、内蔵助の命を含んで、関東の急進派|鎮撫《ちんぶ》のために江戸へ下ることになった。彼が浪士どもに分配するために、軍用金の中から若干《そこばく》の金を携《たずさ》えて行ったことはいうまでもない。
 江戸の急進派の中でも一番あせっていた堀部安兵衛は、それからも絶えず書を寄せて一挙の即行を迫っていたが、とかくに煮えきらぬ内蔵助の態度をもどかしがって、六月の末には単身東海道を押上ってきた。そして、山科の大石の許《もと》へも立ち寄らず、大阪の原総右衛門、京の大高源吾など上方《かみがた》の急進派を糾合《きゅうごう》して、大石の一派とは別に、自分たちだけで大事を決行しようと計った。ここに赤穂義士の連盟も分裂の危機に瀕《ひん》したのである。が、幸か不幸か、七月の二十二日になって、江戸の吉田忠左衛門から浅野大学が芸州《げいしゅう》広島へ流謫《りゅうたく》を命ぜられたことを報じてきた。同じく二十五日には、奥田孫太夫からも同様の書面がとどいた。こうなればもう是非《ぜひ》がない、主家再興の望みは永久に絶えたのである。で、内蔵助もついに意を決して、七月二十八日、京、伏見、山科、大阪、赤穂などに散在する同志と円山重阿弥《まるやまじゅうあみ》の別墅《べっしょ》に会合した上、いよいよ仇討決行の旨《むね》を宣言した。そして、自分も十月の末には江戸へ下るから、面々においてもそれまでに、二人三人ずつ仇家《きゅうか》へ気づかれぬよう内々で下向《げこう》せよと言いわたした。それを聞いて、義徒は皆|踴躍《ゆうやく》した。中にも堀部安兵衛は、大石と離れてさえ決行しようとしていただけに、明くる朝すぐに発足《ほっそく》して、潮田《うしおだ》又之丞とともに江戸に走《は》せ下った。この二人は、途中浜松の駅で、芸州へ流されて行く浅野大学の一行に出逢ったが、後難の相手の身に及ばんことを恐れて、わざとお目通りを願わないで、素知らぬ顔に行き過ぎてしまったと言われる。
 横川勘平は円山会議に先立って、七月の末にはすでに江府へ下っていた。つづいて岡野金右衛門、武林唯七、それに毛利小平太の三人も八月の二十七日に江戸へ着いた。それに次いでは、吉田沢右衛門、間瀬孫九郎、不破数右衛門の三人が九月二日、矢頭右衛門七も単独にて同じく九月二日、千馬三郎兵衛、間重次郎、中田理平次は同月七
前へ 次へ
全64ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森田 草平 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング