と思いながら、「よろしい!」と言った。そして、「飛脚を頼みに行くのか」と訊《き》いてみた。
「うむ、あんまり臆病者がたくさん出るので、心外でたまらぬから、いちいち筆誅《ひっちゅう》を加えてやった」と、勘平は問わず語りに話した。(ついでながら、勘平のこの書状は、江戸における赤穂浪士の動静を知る貴重な材料として、今に伝わっている)「だが、戻路《もどり》にはちょっとよそへ廻るつもりだから、少し晩《おそ》くなるがいいか」
「ああ、ゆっくり行っておいで」
 勘平はそのまま出て行った。が、それと入れ違いに、前に出た安兵衛が戻ってきて、
「小平太どの、ひとつ平間村まで御足労を願いたい」と言いだした。
 聞けば、この宿が当夜の集合所の一つになっている。それについては、昨夜の相談では、当夜の諸道具はめいめいの宿へ持ちこむことになっていたが、やはり一部分はここへ集めておいた方がよかろうということに模様が変ったので、御足労だが、これからすぐに取りに行ってきてもらいたい。もっとも、大石殿の若党|室井《むろい》左六が仲間どもを連れて先へ行っているから、それらのものに持たせて、貴公はただ宰領してきてもらえばいいというのだ。小平太は領承《りょうしょう》してすぐに立ち上った。
 平間村までは往復八里の道である。目黒から間道を脱けて行ったが、それでも帰路《かえり》は夜《よ》に入《い》った。小平太は亥《い》の刻前にようよう戻ってきて、自分で指図をして、それぞれ片づけるものは片づけさせてしまった。もちろん、安兵衛や勘平も手伝った。で、いよいよ寝《しん》につこうとした時、そばに寝ていた勘平が、
「おい、小山田の遁《に》げた原因《わけ》が分ったぞ」と、声を潜《ひそ》めてささやいた。
「ええ?」と、小平太は思わず振返った。「それはまたどうしたというのだ?」
「先達《せんだっ》てからあの男は」と、勘平は蒲団《ふとん》の上に起きなおったままつづけた。「よく湯島の伯母の許《ところ》へ行くといっては出かけたものだ。なに、それが伯母の家でも何でもない、天神下の湯女《ゆな》の宿だとは、俺もとうから見抜いていた。だが、なにも他人《ひと》の秘密を訐《あば》くでもなし、何人《だれ》にもありがちのことだと大目に見ておいたがね、今になってみると、それがこっちの手脱《てぬか》りだったよ。で、まだそこらにまごまごしていたら、引捕まえて
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