するとは!」
「いやなに」と、安兵衛はしずかに言った。「浪人すれば、永い間にはそんな気にもなりましょう。どうせ吾々を見限って一列を脱けた人だ、追及するにも当るまい」
「じゃと申して、吾々の面目にも――」
「だからまあ、金のことはあまり言わぬようにいたしたい。吾々にあってもあまり役に立たぬもの、これから先生き延びる人にはなくてならぬものだからな。はははは」
「そういえば、そんなものでもござろうか、あはははは」と、勘平もいっしょになって笑ってしまった。
 小平太は最初庄左衛門が脱盟したと知った時、ほとんどその訳が分らなかった。ああいう一徹な父親を持っている上に、平生《ひごろ》からずいぶん口幅ったいことも言っていた男が、この期《ご》に及んで逐電する! 彼にはどうしてもありうべからざることのように思われた。が、その一面においては、どういうものか、先《せん》を越されたというような気もした。自分ではまだ遁亡《とんぼう》しようとも何とも思っていなかった。けれども、心のどこかで、やっぱりそういう気のしたことだけは争われない。そして、庄左衛門が満座の中で諸士から罵倒《ばとう》されるのを聞いていた時、まあまあ自分でなくってよかったというような安心を覚えた。しかるに、今宿へ戻って検《しら》べてみると、庄左衛門は他人の金品まで持ち逃げしている! これは下司《げす》下郎《げろう》の仕業《しわざ》で、士にあるまじきことだ。こうなると、小平太ももう自分のことのような気はしなかった。いくら勘平が罵倒しても、他人のこととして平気で聞き流すことができた。そのために、彼はかえって救われたような気もした。
 明くる朝安兵衛は、とにかくこのことはいちおう頭領にも届けておく必要があるというので、早朝から出かけて行った。その後で小平太は、一人|火鉢《ひばち》に向って、ぼんやり考えこんでいた。隣の座敷では、勘平が何やらしきりに書状を認《したた》めている。この間にひとつおしおの許《ところ》へ行ってやろうか、あの女に逢うのももうこれがおしまいだなぞと考えているうちに、隣の間から勘平が片手に書状を持って出てきて、
「ちょっと出かけるから留守を頼むよ」と言った。
 実際、中村、鈴田、小山田とだんだん同宿の者が減ってきては、飯焚《めしたき》の男を除けば、もう小平太のほかに留守をするものもなかった。小平太はまた先を越されたな
前へ 次へ
全64ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森田 草平 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング