合い急を見継ぎ、勝利の全《まったき》ところを専《もっぱら》に相働べきこと。
一、上野介殿十分に討取候とも、銘々《めいめい》一命|遁《のがる》べき覚悟これなき上は、一同に申合せ、散々《ちりぢり》に罷成《まかりなり》申まじく候。手負《ておい》の者これ有においては、互に引懸《ひっかけ》助け合い、その場へ集申べきこと。
右四箇条|相背《あいそむき》候わば、この一大事|成就《じょうじゅ》仕《つかまつら》ず候。然《しかれ》ばこの度退散の大臆病者と同前たるべく候こと。
この草案は吉田忠左衛門の手になった。忠左衛門のほかには、原総右衛門一人それに参与したと言われる。で、それを一同に読み聞かせた上、異議がなければ、ただちに神文《しんもん》へ血を注いでもらいたいと言いだされた。もちろん、誰一人として異議のあろうはずもなかった。そこで大石内蔵助良雄から同苗《どうみょう》主税良金、原総右衛門元辰、吉田忠左衛門|兼亮《かねすけ》というように、禄高《ろくだか》によって、順々に血判をすることになった。
小平太は小山田庄左衛門が姿を見せないと知った時から、ほとんど一語も口を利かなかった。が、起請文《きしょうもん》が自分の前へ廻された時には、顫《ふる》える手先を覚られまいと努めながら、それでも立派に毛利小平太元義と署名して、その下に小指の血を注いだ。そして、それを次の勝田新左衛門に渡した。
こうして大石内蔵助以下寺坂吉右衛門にいたるまで四十八人の血判がすんだ時、さらに当夜の人々心得《にんにんこころえ》が議に附《ふ》せられた。これも忠左衛門の手になったもので、当日定めの刻限が来たら、かねて申合せた三箇所へもの静かに集合すべきことという第一箇条を始めとして、敵の首《しるし》を揚げた時は、骸《かばね》は上衣に包んで泉岳寺に持参すること、子息の首《しるし》は持参におよばず打捨てること、なお味方の手負いは肩に引懸け連れて退くことが肝要だが、歩行|難渋《なんじゅう》の首尾になれば、是非《ぜひ》におよばす首を揚げて引取ること、そのほか合図の小笛、鉦《どら》、退口《のきぐち》のこと、引揚げ場所のこと、途中近所の屋敷から人数を繰《く》りだした場合の挨拶、上杉家から追手がかかった時の懸引、なおまた討入って勝負のつかぬうちに御検使が出張になった場合、それに応ずる口上にいたるまで、すべて十二箇条にわたって残る隈《
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