きから見たように思ったのもむりはない」と、小平太はあたりを見廻しながら低声《ていせい》につづけた。井上源兵衛といえば、九両三人|扶持《ぶち》を頂いて、小身ながらも、君候|在世《ざいせい》の砌《みぎ》りはお勝手元勘定方を勤めていた老人である。「それにしても変った所でお目にかかりましたな。で、お父上はその後御息災でいられるかな」
「はい」と言ったまま、娘はきゅうに下を向いて、はらはらと涙を滾《こぼ》した。
「ふうむ?」と、小平太は相手の容子を見い見い訊ねてみた。「では、何か変ったことでもござりましたか」
「は、はい」と、娘は前垂の端《はし》で眼の縁を拭《ぬぐ》って、ちらと背後《うしろ》を振返りながら、これもあたりへ気を兼ねるように小声でつづけた。「父は昨年の暮に亡《な》くなりました。それから引続いて母が永い間の煩《わずら》いに、蓄えとてもござりませねば、親子|揃《そろ》って一時は路頭に迷おうとしましたが、長屋の衆が親切におっしゃってくださいまして、この春からここで勤めさせていただくようになったのでございます」
「それはそれは、とんだ苦労をなされましたな」と、小平太も相手を労《いたわ》るように言った。「だが、これも時代《ときよ》時節《じせつ》というもの、そのうちにはまたいいことも運《めぐ》ってきましょう。あまりきなきな思って、あなたまで煩わぬようにされるがようござりましょうぞ」
「ありがとう存じます」と、娘は優しく言われるにつけて、またもやせぐりくる涙を前垂の端で押え押えした。
「で、母御《ははご》はその後ちっとはおよろしい方でござるかな」
「それがどうも捗々《はかばか》しくございませんので……この夏から始終寝たり起きたりしていましたが、秋口からはどっと床についたきりでございますの」
「それはまた御心配な」と、小平太は心から同情するように言った。「まあ、せいぜい大切《だいじ》にしておあげなさるがいい。手前もまた何かのおりにお訪ねすることもござろうが、ただ今のお住家《すまい》はこの御近所で?」
「はい、妙見様《みょうけんさま》の裏手の七軒長屋で、こちらの茶店へ出ているおしおと聞いていただけば、じき知れますの」と言いかけて、ふと気がついたように、「でも、大変|汚《むさ》い所でございますので、あなた方にいらしていただくような……」と、遠慮がちに言いなおした。
「いやなに、今では
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