にも思ふが、其後一年半ばかりずつと顏を見ませんでした。從つて最近の消息は私には丸で分らなかつた。それが本年の正月廿九日の夕、私が宅で夕飯を認めて居る時、上野山君からおしづさんの訃を知らせる書状が屆きました。私は其足ですぐ白金の傳染病研究所へ行つて見ました。私は途中も上野山君が途方に暮れて、殆ど何事も手が附けてなからうとそればかり考へて居た。
傳染病研究所の病室の裏手で、だら/\と坂に成つてる林の中の小徑《こみち》を提灯をつけた小使に連れられて降りて行くと、解剖室の隣の死亡室におしづさんの遺骸が安置してありました。棺側には四人の若い人達が寂しく夜伽をして居ました。私が上野山君に挨拶して居ると、傍の一人から聲を懸けられた。それはおしづさんの仲の兄さんで、岡山から急遽上京したと云ふ事でした。あゝ仲の兄さんが來て居る、それなら大丈夫だと、私は始めて安心の息を吐いた。
私は棺側に進んで、おしづさんの亡骸《なきがら》に見《まみ》えた。おしづさんは病症の所爲《せゐ》とかで、宛然《まるで》石膏細工のやうな顏や手をして居ました。髮だけは生前私が記憶して居るまゝに、黒く長く枕邊に亂れて居た。生前苦勞した影も見えない、おしづさんは笑つたやうな顏をして居ました。
短かい一生であつた。併し其の短かい間におしづさんは可也多くの經驗をした。好い作もした。戀もした。幼い時から憧れて居たといふ家庭も自分で作つて見た。子供の愛もおぼえて死んだ。遺して行く子供の心がゝりと云ふやうなものゝ外に、別段心殘りもあるまい。若し出來得べくんば、生前一二年の間、貧しさと云ふ苦艱から離れて、自分でも心行くだけの作が今一つ二つさして死なしたかつた。が考へて見れば、それは如何でも可いことである。
大正七年二月九日[#地から2字上げ]森田草平
底本:「青白き夢」新潮社
1918(大正7)年3月15日発行
※底本での題は「序」ですが、読者の便宜を計るため「『青白き夢』序」としました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
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