して、夜はきっと花火をあげに出る。いわゆる悪戯《いたずら》っ子《こ》として育てられた自分たちの少年時代を追懐して、わたしは決してそれを悔《くや》もうとは思わない。
 その時代にくらべると、今は世の中がまったく変ってしまった。大通りには電車が通る。横町にも自動車や自転車が駆け込んでくる。警察官は道路の取締りにいそがしい。春の紙鳶も、夏の花火も、秋の独楽《こま》も、だんだんに子供の手から奪われてしまった。今でも場末のさびしい薄暗い町を通ると、ときどきに昔なつかしい子供の花火をみることもある。神経の尖《とが》った現代の子供たちはおそらくこの花火に対して、その昔の私たちほどの興味を持っていないであろうと思われる。「花火間もなき光かな」などと云って、むかしから花火は果敢《はか》ないものに謳《うた》われているが、その果敢ないものの果敢ない運命もやがては全くほろび尽くして、花火といえば両国《りょうごく》式の大仕掛けの物ばかりであると思われるような時代が来るであろう。どんなに精巧な螺旋《ぜんまい》仕掛けのおもちゃが出来ても、あの粗末な細い竹筒が割れて、あかい火の光がぽん[#「ぽん」に傍点]とあがるのを眺めていた昔の子供たちの愉快と幸福とを想像することは出来まい。
 花火は夏のものであると私は云った。しかし、秋の宵の花火もまた一種の風趣がないでもない。鉢の朝顔の蔓がだんだんに伸びて、あさ夕はもう涼風が単衣《ひとえもの》の襟にしみる頃、まだ今年の夏を忘れ得ない子供たちが夜露のおりた町に出て、未練らしく花火をあげているのもある。勿論、その火の数は夏の頃ほどに多くない。秋の蛍――そうした寂しさを思わせるような火の光がところどころに揚がっていると、暗い空から弱い稲妻がときどきに落ちて来て、その光を奪いながら共に消えてゆく。子供心にも云い知れない淡い哀愁を誘い出されるのは、こういう秋の宵であった。[#地付き](大正14・5「週刊朝日」)
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雷雨


 夏季に入っていつも感じるのは、夕立《ゆうだち》と雷鳴の少なくなったことである。私たちの少年時代から青年時代にかけては、夕立と雷鳴がずいぶん多く、いわゆる雷嫌いをおびやかしたものであるが、明治末期から次第に減じた。時平公《しへいこう》の子孫万歳である。
 地方は知らず、都会は周囲が開けて来る関係上、気圧や気流にも変化を生じたとみえて、東京などは近年たしかに雷雨が少なくなった。第一に夕立の降り方までが違って来た。むかしの夕立は、今までカンカン天気であったかと思うと、俄かに蝉の声がやむ、頭の上が暗くなる。おやッと思う間に、一朶《いちだ》の黒雲が青空に拡がって、文字通りの驟雨沛然《しゅううはいぜん》、水けむりを立てて瀧のように降って来る。
 往来の人々はあわてて逃げる。家々では慌《あわ》てて雨戸をしめる、干物《ほしもの》を片付ける。周章狼狽《しゅうしょうろうばい》、いやもう乱痴気騒ぎであるが、その夕立も一時間とはつづかず、せいぜい二十分か三十分でカラリと晴れて、夕日が赫《かっ》と照る、蝉がまた啼き出すという始末。急がずば湿《ぬ》れざらましを旅人の、あとより晴るる野路の村雨《むらさめ》――太田道灌《おおたどうかん》よく詠んだとは、まったく此の事であった。近年こんな夕立はめったにない。
 空がだんだんに曇って来て、今に降るかと用意していても、この頃の雷雨は待機の姿勢を取って容易に動かない。三、四十分ないし一時間の余裕をあたえて、それからポツポツ降り出して来るという順序で、昔のような不意撃ちを食わせない。いわんや青天《せいてん》の霹靂《へきれき》などは絶無である。その代りに揚がりぎわもよくない。雷も遠くなり、雨もやむかと見えながら、まだ思い切りの悪いようにビショビショと降っている。むかしの夕立の男性的なるに引きかえて、このごろの夕立は女性的である。雷雨一過の後も爽《さわや》かな涼気を感ずる場合が少なく、いつまでもジメジメして、蒸し暑く、陰鬱で、こんな夕立ならば降らないほうが優《ま》しだと思うことがしばしばある。
 こう云うと、ひどく江戸っ子で威勢がいいようであるが、正直をいえば私はあまり雷を好まない。いわゆる雷嫌いという程でもないが、聞かずに済むならば聞きたくない方で、電光がピカリピカリ、雷鳴がゴロゴロなどは、どうも愉快に感じられない。しかも夕立には雷電を伴うのが普通であるから、自然に夕立をも好まないようになる。殊に近年の夕立のように、雨後の気分がよくないならば、降ってくれない方が仕合せである。雷ばかりでなく、わたしは風も嫌いである。夏の雷、冬の風、いずれも私の平和を破ること少なくない。
 むかしの子供は雷を呼んでゴロゴロ様とか、かみなり様とか云っていたが、わたしが初めてかみなり様とお近付き(?)になったのは、六歳の七月、日は記憶しないが、途方もなく暑い日であった。わたしの家は麹町の元園町にあったが、その頃の麹町辺は今日《こんにち》の旧郊外よりもさびしく、どこの家も庭が広くて、家の周囲にも空地《あきち》が多かった。
 わたしの家と西隣りの家とのあいだにも、五、六間の空地があって、隣りの家には枸杞《くこ》の生垣《いけがき》が青々と結いまわしてあった。わたしはその枸杞の実を食べたこともあった。その生垣の外にひと株の大きい柳が立っている。それが自然の野生であるか、あるいは隣りの家の所有であるか、そんなこともよく判らなかったが、ともかくも相当の大木で、夏から秋にかけては油蝉やミンミンやカナカナや、あらん限りの蝉が来てそうぞうしく啼いた。柳の近所にはモチ竿や紙袋を持った子供のすがたが絶えなかった。前にいう七月のある日、なんでも午後の三時頃であったらしい。大夕立の真っ最中、その柳に落雷したのである。
 雷雨を恐れて、わたしの家では雨戸をことごとく閉じていたので、落雷当時のありさまは知らない。唯《ただ》すさまじい雷鳴と共に、家内が俄かに明るくなったように感じただけであったが、雨が晴れてから出てみると、かの柳は真っ黒に焦《こ》げて、大木の幹が半分ほども裂けていた。わたしは子供心に戦慄《せんりつ》した。その以来、わたしはかみなり様が嫌いになった。
 それでも幸いに、ひどい雷嫌いにもならなかったが、さりとて平然と落着いているような勇士にはなれなかった。雷鳴を不愉快に感ずることは、昔も今も変りがない。その私が暴雷におびやかされた例が三回ある。
 その一は、明治三十七年の九月八日か九日の夜とおぼえている。わたしは東京日日新聞の従軍記者として満洲の戦地にあって、遼陽《りょうよう》陥落の後、半月ほどは南門外の迎陽子という村落の民家に止宿していたが、そのあいだの事である。これは夕立というのではなく、午後二時頃からシトシトと降り出した雨が、暮るると共に烈《はげ》しく降りしきって、九時を過ぎる頃から大雷雨となった。
 雷光は青く、白く、あるいは紅《あか》く、あるいは紫に、みだれて裂けて、乱れて飛んで、暗い村落をいろいろに照らしている。雨はごうごう[#「ごうごう」に傍点]と降っている。雷はすさまじく鳴りはためいて、地震のような大きい地ひびきがする。それが夜の白らむまで、八、九時間も小歇《こや》みなしに続いたのであるから、実に驚いた。大袈裟《おおげさ》にいえば、最後の審判の日が来たのかと思われる程であった。もちろん眠られる筈もない。わたしは頭から毛布を引っかぶって、小さくなって一夜をあかした。
「毎日大砲の音を聞き慣れている者が、雷なんぞを恐れるものか。」
 こんなことを云って強がっていた連中も、仕舞いにはみんな降参したらしく、夜の明けるまで安眠した者は一人もなかった。夜が明けて、雨が晴れて、ほっ[#「ほっ」に傍点]とすると共にがっかりした。
 その二は、明治四十一年の七月である。午後八時を過ぎる頃、わたしは雨を衝《つ》いて根岸《ねぎし》方面から麹町へ帰った。普通は池《いけ》の端《はた》から本郷台へ昇ってゆくのであるが、今夜の車夫は上野《うえの》の広小路《ひろこうじ》から電車線路をまっすぐに神田にむかって走った。御成《おなり》街道へさしかかる頃から、雷鳴と電光が強くなって来たので、臆病な私は用心して眼鏡《めがね》をはずした。
 もう神田区へ踏み込んだと思う頃には、雷雨はいよいよ強くなった。まだ宵ながら往来も途絶えて、時どきに電車が通るだけである。眼の先もみえないように降りしきるので、車夫も思うようには進まれない。ようように五軒町《ごけんちょう》附近まで来かかった時、ゆく先がぱっ[#「ぱっ」に傍点]と明るくなって、がん[#「がん」に傍点]というような霹靂一声、車夫はたちまちに膝を突いた。車は幌《ほろ》のままで横に倒れた。わたしも一緒に投げ出された。幌が深いので、車外へは転げ出さなかったが、ともかくもはっ[#「はっ」に傍点]と思う間にわたしの体は横倒しになっていた。二、三丁さきの旅籠町《はたごちょう》辺の往来のまんなかに落雷したのである。
 わたしは別に怪我《けが》もなかった。車夫も膝がしらを少し擦り剥《む》いたぐらいで、さしたる怪我もなかった。落雷が大地にひびいて、思わず膝を折ってしまったと、車夫は話した。しかし大難が小難で済んだわけで、もし私の車がもう一、二丁も南へ進んでいたら、どんな禍《わざわ》いを蒙《こうむ》ったか判らない。二人はたがいに無事を祝して、豪雨のなかをまた急いだ。
 その三は、大正二年の九月、仙台《せんだい》の塩竃《しおがま》から金華山《きんかざん》参詣の小蒸汽船に乗って行って、島内の社務所に一泊した夜である。午後十時頃から山もくずれるような大雷雨となった。
「なに、直ぐに晴れます。」
 社務所の人は慰めてくれたが、なにしろ場所が場所である。孤島の雷雨はいよいよ凄愴《せいそう》の感が深い。あたまの上の山からは瀧のように水が落ちて来る、海はどうどう[#「どうどう」に傍点]と鳴っている。雷は縦横無尽に駈けめぐってガラガラとひびいている。文字通りの天地震動である。こんなありさまで、あしたは無事に帰られるかと危ぶまれた。天候の悪いときには幾日も帰られないこともあるが、社務所の倉には十分の食料がたくわえてあるから、決して心配には及ばないと云い聞かされて、心細いなかにも少しく意を強うした。
 社務所の人の話に嘘はなかった。さすがの雷雨も十二時を過ぎる頃からだんだんに衰えて、枕もとの時計が一時を知らせる頃には、山のあたりで鹿の鳴く声がきこえた。喜んで窓をあけて見ると、空は拭《ぬぐ》ったように晴れ渡って、旧暦八月の月が昼のように明るく照らしていた。私はあしたの天気を楽しみながら、窓に倚《よ》って徐《しず》かに鹿の声を聞いた。その爽《さわや》かな心持は今も忘れないが、その夜の雷雨のおそろしさも、おなじく忘れ得ない。
 白柳秀湖《しらやなぎしゅうこ》氏の研究によると、東京で最も雷雨の多いのは杉並《すぎなみ》のあたりであると云う。わたしの知る限りでも、東京で雷雨の多いのは北|多摩《たま》郡の武蔵野町から杉並区の荻窪《おぎくぼ》、阿佐ヶ谷《あさがや》のあたりであるらしい。甲信《こうしん》盆地で発生した雷雲が武蔵野の空を通過して、房総《ぼうそう》の沖へ流れ去る。その通路があたかも杉並辺の上空にあたり、下町方面へ進行するにしたがって雷雲も次第に稀薄になるように思われる。但し俗に「北鳴り」と称して、日光《にっこう》方面から押し込んで来る雷雲は別物である。[#地付き](昭和11・7「サンデー毎日」)
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 去年の十月頃の新聞を見た人々は記憶しているであろう。日本橋蠣殻町《にほんばしかきがらちょう》のある商家の物干へ一羽の大きい鳶《とび》が舞い降りたのを店員大勢が捕獲して、警察署へ届け出たというのである。ある新聞には、その鳶の写真まで掲げてあった。
 そのとき私が感じたのは、鳶という鳥がそれほど世間から珍しがられるようになった事である。今から三、四十年前であったら、鳶なぞがそこらに舞っていても、降りていても、誰も見返
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