ない。
その原本は少ない上に、価《あたい》も廉《やす》くない。わたしは神田の三久(三河屋久兵衛《みかわやきゅうべえ》)という古本屋へしばしばひやかしに行ったが、貧乏書生の悲しさ、読みたい本を見付けても容易に買うことが出来ないのであった。金さえあれば、おれも学者になれるのだと思ったが、それがどうにもならなかった。
私にかぎらず、原本は容易に獲《え》られず、その価もまた廉くない関係から、その時代には書物の借覧ということが行なわれた。蔵書家に就いてその蔵書を借り出して来るのである。ところが、蔵書家には門外不出を標榜《ひょうぼう》している人が多く、自宅へ来て読むというならば読ませてやるが、貸出しはいっさい断わるというのである。そうなると、その家を訪問して読ませて貰うのほかは無い。
日曜日のほかに余暇のないわたしは、それからそれへと紹介を求めて諸家を訪問することになったが、それが随分難儀な仕事であった。由来、蔵書家というような人たちは、東京のまん中に余り多く住んでいない。大抵は場末の不便なところに住んでいる。電車の便などのない時代に、本郷小石川や本所深川辺まで尋ねて行くことになると、その往復だけでも相当の時間を費《ついや》してしまうので、肝腎の読書の時間が案外に少ないことになるにはすこぶる困った。
なにしろ馴染《なじ》みの浅い家へ行って、悠々と坐り込んで書物を読んでいるのは心苦しいことである。蔵書家と云っても、広い家に住んでいるとは限らないから、時には玄関の二畳ぐらいの処に坐って読まされる。時にはまた、立派な座敷へ通されて恐縮することもある。腰弁当で出かけても、碌々《ろくろく》に茶も飲ませてくれない家がある。そうかと思うと、茶や菓子を出して、おまけに鰻飯などを食わせてくれる家がある。その待遇は千差万別で、冷遇はいささか不平であるが、優待もあまりに気の毒でたびたび出かけるのを遠慮するようにもなる。冷遇も困るが、優待も困る。そこの加減がどうもむずかしいのであった。
そのあいだには、上野の図書館へも通ったが、やはり特別の書物を読もうとすると、蔵書家をたずねる必要が生ずるので、わたしは前に云うような冷遇と優待を受けながら、根《こん》よく方々をたずね廻った。ただ読んでいるばかりでは済まない。時には抜書きをすることもある。万年筆などの無い時代であるから、矢立《やたて》と罫紙《けいし》を持参で出かける。そうした思い出のある抜書き類も、先年の震災でみな灰となってしまった。
そういう時代に、博文館から日本文字全書、温知《おんち》叢書、帝国文庫などの翻刻物を出してくれたのは、われわれに取って一種の福音《ふくいん》であった。勿論、ありふれた物ばかりで、別に珍奇の書は見いだされなかったが、それらの書物を自分の座右に備え付けて置かれるというだけでも、確かに有難いことであった。
その後、古書の翻刻も続々行なわれ、わたしの懐ろにも幾分の余裕が出来て、買いたい本はどうにか買えるようにもなったが、その昔の読書の苦しみは身にしみて覚えている。わたしはその経験があるだけに、書物の装幀《そうてい》などには余り重きを置かない。なんでも廉く買えて、それを自分の手もとに置くことの出来るのを第一義としている。
前にもいう通り、わたしが矢立と罫紙を持って、風雨を冒して郊外の蔵書家を訪問して、一生懸命に筆写して来た書物が、今日《こんにち》では何々文庫として二十銭か三十銭で容易に手に入れることが出来るのは、読書子に取って実に幸福であると云わなければならない。廉価版が善いの悪いのと贅沢をいうべきでは無い。
博文館以外にも、その当時に古書を翻刻してくれた人々は、その目的が那辺《なへん》にあろうとも、われわれに取ってはみな忘れ難い恩人であった。その人々も今は大かた此の世にいないであろう。その書物も次第に堙滅《いんめつ》して、今は古本屋の店頭にもその形をとどめなくなった。私もその翻刻書類を随分蒐集していたが、それもみな震災の犠牲になってしまったのは残り惜しい。
わたしは比較的に好運の人間で、これまでに余りひどい目に逢ったことも無かったが、震災のために、多年の日記、雑記帳、原稿のたぐいから蔵書一切を焼き失ったのは、一生一度の償《つぐな》い難き災禍であった。この恨みは綿々として尽きない。[#地付き](昭和8・3「書物展望」)
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回想・半七捕物帳
捕物帳の成り立ち
初めて「半七捕物帳」を書こうと思い付いたのは、大正五年の四月頃とおぼえています。その頃わたしはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズを飛びとびに読んでいたが、全部を通読したことが無いので、丸善へ行ったついでに、シャーロック・ホームズのアドヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて三冊を読み終えると、探偵物語に対する興味が油然《ゆうぜん》と湧《わ》き起って、自分もなにか探偵物語を書いてみようという気になったのです。勿論《もちろん》、その前にもヒュームなどの作も読んでいましたが、わたしを刺戟したのはやはりドイルの作です。
しかしまだ直ぐには取りかかれないので、さらにドイルの作を獲《あさ》って、かのラスト・ギャリーや、グリーン・フラダや、爐畔《ろはん》物語や、それらの短篇集を片っ端から読み始めました。しかし一方に自分の仕事があって、その頃は時事新報の連載小説の準備もしなければならなかったので、読書もなかなか捗取《はかど》らず、最初からでは約ひと月を費《ついや》して、五月下旬にようやく以上の諸作を読み終りました。
そこで、いざ書くという段になって考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というものが無い。大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから、新たに探偵を主としたものを書いてみたら面白かろうと思ったのです。もう一つには、現代の探偵物語を書くと、どうしても西洋の模倣に陥り易い虞《おそ》れがあるので、いっそ純江戸式に書いたならば一種の変った味のものが出来るかも知れないと思ったからでした。幸いに自分は江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引などの生活に就いても、ひと通りの予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです。
その年の六月三日から、まず「お文《ふみ》の魂《たましい》」四十三枚をかき、それから「石燈籠」四十枚をかき、更に「勘平の死」四十一枚を書くと、八月から国民新聞の連載小説を引き受けなければならない事になりました。時事と国民、この二つの新聞小説を同時に書いているので、捕物帳はしばらく中止の形になっていると、そのころ文芸倶楽部の編集主任をしていた森|暁紅《ぎょうこう》君から何か連載物を寄稿しろという注文があったので、「半七捕物帳」という題名の下《もと》にまず前記の三種を提出し、それが大正六年の新年号から掲載され始めたので、引きつづいてその一月から「湯屋の二階」「お化《ばけ》師匠」「半鐘の怪」「奥女中」を書きつづけました。雑誌の上では新年号から七月号にわたって連載されたのです。
そういうわけで、探偵物語の創作はこれが序開きであるので、自分ながら覚束ない手探りの形でしたが、どうやら人気になったと云うので、更に森君から続篇をかけと注文され、翌年の一月から六月にわたって又もや六回の捕物帳を書きました。その後も諸雑誌や新聞の注文をうけて、それからそれへと書きつづけたので、捕物帳も案外多量の物となって、今まで発表した物話は四十数篇あります。
半七老人は実在の人か――それに就いてしばしば問い合せを受けます。勿論、多少のモデルが無いでもありませんが、大体に於いて架空の人物であると御承知ください。おれは半七を知っているとか、半七のせがれは歯医者であるとか、或いは時計屋であるとか、甚《はなは》だしいのはおれが半七であると自称している人もあるそうですが、それは恐らく、同名異人で、わたしの捕物帳の半七老人とは全然無関係であることを断わっておきます。
前にも云った通り、捕物帳が初めて文芸倶楽部に掲載されたのは大正六年の一月で、今から振り返ると十年余りになります。その文芸倶楽部の誌上に思い出話を書くにつけて、今更のように月日の早いのに驚かされます。[#地付き](昭和2・8「文芸倶楽部」)
半七招介状
明治二十四年四月第二日曜日、若い新聞記者が浅草公園弁天山の惣菜《そうざい》(岡田)へ午飯《ひるめし》を食いにはいった。花盛りの日曜日であるから、混雑は云うまでも無い。客と客とが押し合うほどに混み合っていた。
その記者の隣りに膳をならべているのは、六十前後の、見るから元気のよい老人であった。なにしろ客が立て込んでいるので、女中が時どきにお待遠《まちどお》さまの挨拶をして行くだけで、注文の料理はなかなか運ばれて来《こ》ない。記者は酒を飲まない。隣りの老人は一本の徳利《とくり》を前に置いているが、これも深くは飲まないとみえて、退屈しのぎに猪口《ちょこ》をなめている形である。
花どきであるから他のお客様はみな景気がいい。酔っている男、笑っている女、賑やかを通り越して騒々《そうぞう》しい位であるが、そのなかで酒も飲まず、しかも独りぼっちの若い記者は唯ぼんやりと坐っているのである。隣りの老人にも連れはない。注文の料理を待っているあいだに、老人は記者に話しかけた。
「どうも賑やかですね。」
「賑やかです。きょうは日曜で天気もよし、花も盛りですから。」と、記者は答えた。
「あなたは酒を飲みませんか。」
「飲みません。」
「わたくしも若いときには少し飲みましたが、年を取っては一向《いっこう》いけません。この徳利《とっくり》も退屈しのぎに列《なら》べてあるだけで……。」
「ふだんはともあれ、花見の時に下戸《げこ》はいけませんね。」
「そうかも知れません。」と、老人は笑った。
「だが、芝居でも御覧なさい。花見の場で酔っ払っているような奴は、大抵お腰元なんぞに嫌われる敵役《かたきやく》で、白塗りの色男はみんな素面《しらふ》ですよ。あなたなんぞも二枚目だから、顔を赤くしていないんでしょう。あははははは。」
こんなことから話はほぐれて、隣り同士が心安くなった。老人がむかしの浅草の話などを始めた。老人は痩《や》せぎすの中背《ちゅうぜい》で、小粋な風采といい、流暢な江戸弁といい、紛《まぎ》れもない下町の人種である。その頃には、こういう老人がしばしば見受けられた。
「お住居は下町ですか。」と、記者は訊《き》いた。
「いえ、新宿の先で……。以前は神田に住んでいましたが、十四五年前から山の手の場末へ引っ込んでしまいまして……。馬子唄で幕を明けるようになっちゃあ、江戸っ子も型なしです。」と、老人はまた笑った。
だんだん話しているうちに、この老人は文政《ぶんせい》六年|未年《ひつじどし》の生まれで、ことし六十九歳であるというのを知って、記者はその若いのに驚かされた。
「いえ、若くもありませんよ。」と、老人は云った。「なにしろ若い時分から体《からだ》に無理をしているので、年を取るとがっくり弱ります。もう意気地はありません。でも、まあ仕合せに、口と足だけは達者で、杖も突かずに山の手から観音さままで御参詣に出て来られます。などと云うと、観音さまの罰《ばち》が中《あた》る。御参詣は附けたりで、実はわたくしもお花見の方ですからね。」
話しながら飯を食って、ふたりは一緒にここを出ると、老人はうららかな空をみあげた。
「ああ、いい天気だ。こんな花見|日和《びより》は珍らしい。わたくしはこれから向島《むこうじま》へ廻ろうと思うのですが、御迷惑でなければ一緒にお出でになりませんか。たまには年寄りのお附合いもするものですよ。」
「はあ、お供しましょう。」
二人は吾妻橋《あづまばし》を渡って向島へゆくと、ここもおびただしい人出である。その混雑をくぐって、二人は話しながら歩いた。自分はたんとも食わないのであるが、若い道連れに奢《おご》ってくれる積りらしく
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