に強いので、感冒にかかり易いわたしは大いに用心しなければならなかった。
 郊外に盗難の多いのはしばしば聞くことであるが、ここらも用心のよい方ではない。わたしの横町にも二、三回の被害があって、その賊は密行の刑事巡査に捕えられたが、それから間もなく、わたしの家でも窃盗《せっとう》に見舞われた。夜が明けてから発見したのであるが、賊はなぜか一物《いちもつ》をも奪い取らないで、新しいメリンスの覆面頭巾を残して立ち去った。一応それを届けて置くと、警察からは幾人の刑事巡査が来て丁寧に現場を調べて行ったが、賊は不良青年の群れで、その後に中野《なかの》の町で捕われたように聞いた。わたしの家の女中のひとりが午後十時ごろに外から帰って来る途中、横町の暗いところで例の痴漢に襲われかかったが、折りよく巡査が巡回して来たので救われた。とかくにこの種の痴漢が出没するから婦人の夜間外出は注意しろと、町内の組合からも謄写版《とうしゃばん》の通知書をまわして来たことがある。わたしの住んでいる百人町には幸いに火災はないが、淀橋辺には頻繁の火事沙汰がある。こうした事件は冬の初めが最も多い。
「郊外と市内と、どちらが好《よ》うございます。」
 私はたびたびこう訊かれることがある。それに対して、どちらも同じことですねと私は答えている。郊外生活と市内生活と、所詮《しょせん》は一長一短で、公平に云えば、どちらも住みにくいと云うのほかはない。その住みにくいのを忍ぶとすれば、郊外か市内か、おのおのその好むところに従えばよいのである。[#地付き](大正14・4「読売新聞」)
[#改ページ]


薬前薬後


     草花と果物

 盂蘭盆《うらぼん》の迎い火を焚くという七月十三日のゆう方に、わたしは突然に強い差込みに襲われて仆《たお》れた。急性の胃痙攣《いけいれん》である。医師の応急手当てで痙攣の苦痛は比較的に早く救われたが、元来胃腸を害しているというので、それから引きつづいて薬を飲む、粥《かゆ》を啜《すす》る、おなじような養生法を半月以上も繰り返して、八月の一日からともかくも病床をぬけ出すことになった。病人によい時季と云うのもあるまいが、暑中の病人は一層難儀である。わたしはかなりに疲労してしまった。今でも机にむかって、まだ本当に物を書くほどの気力がない。
 病臥中、はじめの一週間ほどは努《つと》めて安静を守っていたが、日がだんだんに経つにつれて、気分のよい日の朝晩には縁側へ出て小さい庭をながめることもある。わたしが現在住んでいるのは半蔵門に近いバラック建の二階家で、家も小さいが庭は更に小さく、わずかに八坪余りのところへ一面に草花を栽えている。
 若い書生が勤勉に手入れをしてくれるので、わたしの病臥中にも花壇はちっとも狼藉《ろうぜき》たる姿をみせていない。夏の花、秋の草、みな恙《つつが》なく生長している。これほどの狭い庭に幾種の草花類が栽えられてあるかと試みにかぞえてみると、ダリヤ、カンナ、コスモス、百合、撫子《なでしこ》、石竹《せきちく》、桔梗、矢車草、風露草《ふうろそう》、金魚草、月見草、おいらん草、孔雀《くじゃく》草、黄蜀葵《おうしょつき》、女郎花《おみなえし》、男郎花《おとこえし》、秋海棠《しゅうかいどう》、水引、鶏頭、葉鶏頭、白粉《おしろい》、鳳仙花、紫苑、萩、芒《すすき》、日まわり、姫日まわり、夏菊と秋の菊数種、ほかに朝顔十四鉢――まずザッとこんなもので、一種が一株というわけではなく、一種で十余株の多きに上《のぼ》っているのもあるから、いかによく整理されていたところで、その枝や葉や花がそれからそれへと掩《おお》い重なって、歌によむ「八重葎《やえむぐら》しげれる宿」と云いそうな姿である。
 そのほかにも桐や松や、柿や、椿、木犀《もくせい》、山茶花《さざんか》、八つ手、躑躅《つつじ》、山吹のたぐいも雑然と栽えてあるので草木繁茂、枝や葉をかき分けなければ歩くことは出来ない。
「狭いところへよくも栽え込んだものだな。」と、わたしは自分ながら感心した。
 狭い庭を藪にして、好んで藪蚊の棲み家を作っている自分の物好きを笑うよりも、こうして僅かに無趣味と殺風景から救われようと努めているバラック生活の寂しさを、今更のように考えさせられた。
 わたしの家ばかりでなく、近所の住居といわず、商店といわず、バラックの家々ではみな草花を栽えている。二尺か三尺の空地にもダリヤ、コスモス、白まわり、白粉のたぐいが必ず栽えてあるのは、震災以前にかつて見なかったことである。われわれは斯うして救われるのほかはないのであろうか。
 わたしの現在の住宅は、麹町通りの電車道に平行した北側の裏通りに面しているので、朝は五時頃から割引きの電車がひびく。夜は十二時半頃まで各方面からのぼって来る終電車の音がきこえる。それも勿論そうぞうしいには相違ないが、私の枕を最も強くゆすぶるものは貨物自動車と馬力《ばりき》である。これらの車は電車通りの比較的に狭いのを避けて、いずれもわたしの家の前の裏通りを通り抜けることにしているので、昼間はともあれ、夜はその車輪の音が枕の上にいっそう強く響いて来るのである。
 病中不眠勝ちのわたしは此の頃その響きをいよいよ強く感じるようになった。夜も宵のあいだはまだよい。終電車もみな通り過ぎてしまって、世間が初めてひっそりと鎮まって、いわゆる草木も眠るという午前二時三時の頃に、ガタガタといい、ガラガラという響きを立てて、ほとんど絶え間も無しに通り過ぎるトラックと馬力の音、殊に馬力は速力が遅く、且《かつ》は幾台もつながって通るので、枕にひびいている時間が長い。
 病中わたしに取って更に不幸というべきは、この夜半の馬力が暑いあいだ最も多く通行することである。なんでも多摩川のあたりから水蜜桃《すいみつとう》や梨などの果物の籠を満載して、神田の青物市場へ送って行くので、この時刻に積荷を運び込むと、あたかも朝市《あさいち》に間に合うのだそうである。その馬力が五台、七台、ないし十余台もつながって行くのは、途中で奪われない用心であると云う。いずれにしても、それが此の頃のわたしを悩ますことはひと通りでない。
「これほどに私を苦しめて行くあの果物が、どこの食卓を賑わして、誰の口にはいるか。」
 私は寝ながらそんなことを考えた。それに付けて思い出されるのは、わたしが巴里《パリ》に滞在していた頃、夏のあかつきの深い靄《もや》が一面にとざしている大きい並木の街《まち》に、馬の鈴の音《ね》がシャンシャン聞える。靄に隠されて、馬も人も車もみえない。ただ鈴の音が遠く近くきこえるばかりである。それは近在から野菜や果物を送って来る車で、このごろは桜ん坊が最も多いということであった。その以来わたしは桜ん坊を食うたびに、並木の靄のうちに聞える鈴の音を思い出して、一種の詩情の湧いて来るのを禁じることが出来ない。
 おなじ果物を運びながらも、東京の馬力では詩趣も無い、詩情も起らない。いたずらに人の神経を苛立《いらだ》たせるばかりである。

     雁と蝙蝠

 七月二十四日。きのうの雷雨のせいか、きょうは土用《どよう》に入ってから最も涼しい日であった。昼のうちは陰っていたが、宵には薄月《うすづき》のひかりが洩れて、涼しい夜風がすだれ越しにそよそよ[#「そよそよ」に傍点]と枕元へ流れ込んで来る。
 病気から例の神経衰弱を誘い出したのと、連日の暑気と、朝から晩まで寝て暮らしているのとで、毎晩どうも安らかに眠られない。今夜は涼しいから眠られるかと、十時頃から蚊帳《かや》を釣らせることにしたが、窓をしめ、雨戸をしめると、やはり蒸し暑い。十一時を過ぎ、十二時を過ぎて、電車の響きもやや絶えだえになった頃から少しうとうと[#「うとうと」に傍点]して、やがて再び眼をさますと、襟首には気味のわるい汗がにじんでいる。その汗を拭いて、床の上に起き直って団扇《うちわ》を使っていると、トタン葺《ぶ》きの家根に雨の音がはらはら[#「はらはら」に傍点]と聞える。そのあいだに鳥の声が近くきこえた。
 それは雁《がん》の鳴く声で、お堀の水の上から聞えて来ることを私はすぐに知った。お堀に雁の群れが降りて来るのは珍しくないが、それには時候が早い。土用に入ってまだ幾日も過ぎないのに、雁の来るのはめずらしい。群れに離れた孤雁《こがん》が何かの途惑いをして迷って来たのかも知れないと思っていると、雁は雨のなかにふた声三声つづけて叫んだ。
 しずかにそれを聴いているうちに、私の眼のさきには昔の麹町のすがたが泛《う》かび出した。そこには勿論、自動車などは通らなかった。電車も通らなかった。スレート葺きやトタン葺きの家根も見えなかった。家根といえば瓦葺きか板葺きである。その家々の家根の上を秋風が高く吹いて、ゆう日のひかりが漸《ようや》く薄れて来るころに、幾羽の雁の群れが列をなして大空を高く低く渡ってゆく。巷《ちまた》に遊んでいる子供たちはそれを仰いで口々に呼ぶのである。
「あとの雁が先になったら、笄《こうがい》取らしょ。」
 わたしも大きい口をあいて呼んだ。雁の行《つら》は正しいものであるが、時にはその声々に誘われたように後列の雁が翼を振って前列を追いぬけることがある。あるいは野に伏兵《ふくへい》ありとでも思うのか、前列後列が俄かに行を乱して翔《かけ》りゆく時がある。空飛ぶ鳥が地上の人の号令を聞いたかのように感じられた時、子供たちは手を拍《う》って愉快を叫んだ。そうして、その鳥の群れが遠くなるまで見送りながら立ち尽くしていると、秋のゆうぐれの寒さが襟にしみて来る。
 秋になると、毎年それをくり返していたので、私に取っては忘れがたい少年時代の思い出の一つとなっているが、この頃では秋になっても東京の空を渡る雁の影も稀《まれ》になった。まして往来のまんなかに突っ立って、「笄取らしょ。」などと声を嗄《か》らして叫んでいるような子供は一人もないらしい。
 雁で思い出したが、蝙蝠《こうもり》も夏の宵の景物の一つであった。
 江戸時代の錦絵には、柳の下に蝙蝠の飛んでいるさまを描いてあるのをしばしば見る。粋な芸妓などが柳橋あたりの河岸《かし》をあるいている、その背景には柳と蝙蝠を描くのがほとんど紋切り型のようにもなっている。実際、むかしの江戸市中にはたくさん棲んでいたそうで、外国やシナの話にもあるように、化け物屋敷という空家を探険してみたらば、そこに年|古《ふ》る蝙蝠が棲んでいるのを発見したというような実話が幾らも伝えられている。大きい奴になると、不意に飛びかかって人の生き血を吸うのであるから、一種の吸血鬼と云ってもよい。相馬《そうま》の古御所《ふるごしょ》の破れた翠簾《すいれん》の外に大きい蝙蝠が飛んでいたなどは、確かに一段の鬼気を添えるもので、昔の画家の働きである。
 しかし市中に飛んでいる小さい蝙蝠は、鬼気や妖気の問題を離れて、夏柳の下をゆく美人の影を追うにふさわしいものと見なされている。私たちも子供のときには蝙蝠を追いまわした。
 夏のゆうぐれ、うす暗い家の奥からは蚊やりの煙りが仄白《ほのじろ》く流れ出て、家の前には涼み台が持ち出される頃、どこからとも知らず、一匹か二匹の小さい蝙蝠が迷って来て、あるいは街《まち》を横切り、あるいは軒端《のきば》を伝って飛ぶ。蚊喰い鳥という異名《いみょう》の通り、かれらは蚊を追っているのであろう。それをまた追いながら、子供たちは口々に叫ぶのである。
「こうもり、こうもり、山椒《さんしょ》食わしょ。」

 前の雁とは違って、これは手のとどきそうな低いところを舞いあるいているから、何とかして捕えようというのが人情で、ある者は竹竿を持ち出して来るが、相手はひらひらと軽く飛び去って、容易に打ち落すことは出来ない。蝙蝠を捕えるには泥草鞋《どろわらじ》を投げるがよいと云うことになっているので、往来に落ちている草鞋や馬の沓《くつ》を拾って来て、「こうもり来い。」と呼びながら投げ付ける。うまくあたって地に落ちて来ることもあるが、又すぐに飛び揚がってしまって、十
前へ 次へ
全41ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング