です。その様子がどうも可怪《おかし》いので、お前は誰だと声をかけると、その男はいきなりに刀を引き抜いて番頭を目がけて斬ってかかりました。番頭は驚いて逃げたので幸いに無事でしたが、その騒ぎを聞いて社務所から駈け付けて来た山伏の何某《なにがし》は、出合いがしらに一と太刀斬られて倒れました。これが第一の犠牲でした。
男はそれから血刀を振りかざして、まっしぐらに社務所へ飛び込みました。そうして、不意に驚く人々を片端から追い詰めて、あたるに任せて斬りまくったのです。田沼神官と下女とは庭に倒れました。神官の兄と弟は敵を捕えようとして内と庭とで斬られました。またそのほかにも二人の負傷者ができました。庭から門前の雪は一面に紅くひたされて、見るからに物すごい光景を現じました。血に狂った男はまだ鎮まらないで、相手嫌わずに雪の中を追い廻すのですから、町の騒ぎは大変でした。
半鐘が鳴る。消防夫が駈け付ける。町の者は思い思いの武器を持って集まる。四方八方から大勢が取り囲んで攻め立てたのですが、相手は死に物狂いで容易に手に負えません。そのうちに一人の撃ったピストルが男の足にあたって思わず小膝を折ったところへ、他の一人の槍がその脇腹にむかって突いて来ました。もうこれ迄《まで》です。男の血は槍や鳶口《とびぐち》や棒や鋤《すき》や鍬《くわ》を染めて、からだは雪に埋められました。検視の来る頃には男はもう死んでいました。
神官と山伏と下女とは即死です。ほかの四人は重傷ながら幸いに命をつなぎ止めました。わたしの案内者も負傷者を病院へ運んだ一人だそうです。
「そこで、その男は何者だね。」
わたしは縁台に腰をかけながら訊きました。くだりの路も途中からはもと来た路と一つになって、私たちはふたたび一本杉の金洞舎の前に出たのです。案内者も腰をおろして、茶を飲みながらまた話しました。
磯部から妙義へ登る途中に、西横野《にしよこの》という村があります。かの惨劇の主人公はこの村の生まれで、前年の冬に習志野《ならしの》の聯隊から除隊になって戻って来た男です。この男の兄というのは去年から行くえ不明になっているので、母もたいそう心配していました。すると、前に云った二十一日の朝、彼は突然に母にむかって、これから妙義へ登ると云い出したのです。この大雪にどうしたのかと母が不思議がりますと、実はゆうべ兄《にい》さんに逢ったと云うのです。ゆうべの夢に、妙義の奥の箱淵《はこぶち》という所へ行くと、黒い淵の底から兄さんが出て来て、おれに逢いたければ明日《あした》ここへ尋ねて来て、淵にむかって大きな声でおれを呼べ、きっと姿を見せてやろうと云う。そんなら行こうと堅く約束したのだから、どうしても行かなければならないと云い張って、母が止めるのも肯《き》かずにとうとう出て行ったのです。それからどうしたのかよく判りません。人を斬った刀は駐在所の巡査の剣を盗み出したのだと云います。
しかし其の箱淵へ尋ねて行く途中であったのか、あるいは淵に臨んで幾たびか兄を呼んでも答えられずに、むなしく帰る途中であったのか、それらのことはやはり判りません。とにかくに意趣《いしゅ》も遺恨もない人間を七人までも斬ったと云うのは、考えてもおそろしい事です。気が狂ったに相違ありますまい。しかも大雪のふる日に妙義の奥に分け登って、底の知れない淵にむかって、恋しい兄の名を呼ぼうとした弟の心を思いやれば、なんだか悲しい悼《いた》ましい気もします。殺された人々は無論気の毒です。殺した人も可哀そうです。その箱淵という所へ行って見たいような気もしましたが、ずっと遠い山奥だと聞きましたからやめました。
帰途《かえり》にも葡萄酒醸造所に寄って、ふたたび梅酒の御馳走になりました。アルコールがはいっていないのですから、わたしには口当りがたいそう好《よ》いのです。少々ばかりのお茶代を差し置いてここを出る頃には、霧も雨に変って来たようですから、いよいよ急いで宿へ帰り着いたのは丁度午後三時でした。登山したのは午前九時頃でしたから、かれこれ六時間ほどを山めぐりに費した勘定です。
菱屋で暫く休息して、わたしは日の暮れないうちに磯部へ戻ることにしました。案内者に別れて、菱屋の門《かど》を出ると、笠の上にはポツポツという音がきこえます。蛭ではありません。雨の音です。山の上からは冷たい風が吹きおろして来ました。貸座敷の跡だと云うあたりには、桑の葉がぬれて戦《そよ》いでいました。[#地付き](大正3・9「木太刀」)
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磯部の若葉
きょうもまた無数の小猫の毛を吹いたような細かい雨が、磯部《いそべ》の若葉を音もなしに湿《ぬ》らしている。家々の湯の烟りも低く迷っている。疲れた人のような五月の空は、時どきに薄く眼をあいて夏らしい光りを微かに洩らすかと思うと、又すぐに睡《ねむ》そうにどんよりと暗くなる。鶏が勇ましく歌っても、雀がやかましく囀《さえず》っても、上州《じょうしゅう》の空は容易に夢から醒めそうもない。
「どうも困ったお天気でございます。」
人の顔さえ見れば先ず斯《こ》ういうのが此の頃の挨拶になってしまった。廊下や風呂場で出逢う逗留《とうりゅう》の客も、三度の膳を運んで来る旅館の女中たちも、毎日この同じ挨拶を繰り返している。わたしも無論その一人である。東京から一つの仕事を抱えて来て、此処《ここ》で毎日原稿紙にペンを走らしている私は、ほかの湯治客ほどに雨の日のつれづれに苦しまないのであるが、それでも人の口真似をして「どうも困ります」などと云っていた。
実際、湯治とか保養とかいう人たちは別問題として、上州のここらは今が一年じゅうで最も忙がしい養蚕《ようさん》季節で、なるべく湿《ぬ》れた桑の葉をお蚕《こ》さまに食わせたくないと念じている。それを考えると「どうも困ります」も、決して通り一遍の挨拶ではない。ここらの村や町の人たちに取っては重大の意味をもっていることになる。土地の人たちに出逢った場合には、わたしも真面目に「どうも困ります」と云うことにした。
どう考えても、きょうも晴れそうもない。傘をさして散歩に出ると、到る処の桑畑は青い波のように雨に烟っている。妙義《みょうぎ》の山も西に見えない。赤城《あかぎ》、榛名《はるな》も東北に陰っている。蓑笠《みのかさ》の人が桑を荷《にな》って忙がしそうに通る、馬が桑を重そうに積んでゆく。その桑は莚《むしろ》につつんであるが、柔らかそうな青い葉は茹《ゆ》でられたようにぐったりと湿れている。私はいよいよ痛切に「どうも困ります」を感じずにはいられなくなった。そうして、鉛のような雨雲を無限に送り出して来る、いわゆる「上毛《じょうもう》の三名山」なるものを呪わしく思うようになった。
磯部には桜が多い。磯部桜といえば上州の一つの名所になっていて、春は長野《ながの》や高崎《たかさき》、前橋《まえばし》から見物に来る人が多いと、土地の人は誇っている。なるほど停車場に着くと直ぐに桜の多いのが誰の眼にもはいる。路ばたにも人家の庭にも、公園にも丘にも、桜の古木が枝をかわして繁っている。磯部の若葉はすべて桜若葉であると云ってもいい。雪で作ったような向い翅《ばね》の鳩の群れがたくさんに飛んで来ると、湯の町を一ぱいに掩っている若葉の光りが生きたように青く輝いて来る。ごむほおずきを吹くような蛙《かわず》の声が四方に起ると、若葉の色が愁《うれ》うるように青黒く陰って来る。
晴れの使いとして鳩の群れが桜の若葉をくぐって飛んで来る日には、例の「どうも困ります」が、暫く取り払われるのである。その使いも今日は見えない。宿の二階から見あげると、妙義みちにつづく南の高い崖みちは薄黒い若葉に埋められている。
旅館の庭には桜のほかに青梧《あおぎり》と槐《えんじゅ》とを多く栽《う》えてある。痩せた梧の青い葉はまだ大きい手を拡げないが、古い槐の新しい葉は枝もたわわに伸びて、軽い風にも驚いたように顫《ふる》えている。そのほかに梅と楓と躑躅《つつじ》と、これらが寄り集まって夏の色を緑に染めているが、これは幾分の人工を加えたもので、門《かど》を一歩出ると、自然はこの町の初夏を桜若葉で彩《いろど》ろうとしていることが直ぐにうなずかれる。
雨が小歇《こや》みになると、町の子供や旅館の男が箒《ほうき》と松明《たいまつ》とを持って桜の毛虫を燔《や》いている。この桜若葉を背景にして、自転車が通る。桑を積んだ馬が行く。方々の旅館で畳替えを始める。逗留客が散歩に出る。芸妓《げいしゃ》が湯にゆく。白い鳩が餌《えさ》をあさる。黒い燕《つばめ》が往来なかで宙返りを打つ。夜になると、蛙が鳴く、梟《ふくろう》が鳴く。門付《かどづ》けの芸人が来る。碓氷川《うすいがわ》の河鹿《かじか》はまだ鳴かない。
おととしの夏ここへ来たときに下磯部の松岸寺《しょうがんじ》へ参詣したが、今年も散歩ながら重ねて行った。それは「どうも困ります」の陰った日で、桑畑を吹いて来るしめった風は、宿の浴衣《ゆかた》の上にフランネルをかさねた私の肌に冷やびやと沁《し》みる夕方であった。
寺は安中《あんなか》みちを東に切れた所で、ここら一面の桑畑が寺内まで余ほど侵入しているらしく見えた。しかし、由緒ある古刹《こさつ》であることは、立派な本堂と広大な墓地とで容易に証明されていた。この寺は佐々木盛綱《ささきもりつな》と大野九郎兵衛《おおのくろべえ》との墓を所有しているので名高い。佐々木は建久《けんきゅう》のむかし此の磯部に城を構えて、今も停車場の南に城山の古蹟を残している位であるから、苔《こけ》の蒼い墓石は五輪塔のような形式でほとんど完全に保存されている。これに列《なら》んで其の妻の墓もある。その傍には明治時代に新しく作られたという大きい石碑もある。
しかし私に取っては、大野九郎兵衛の墓の方が注意を惹《ひ》いた。墓は大きい台石の上に高さ五尺ほどの楕円形の石を据えてあって、石の表には慈望遊謙《じぼうゆうけん》墓、右に寛延《かんえん》○年と彫ってあるが、磨滅しているので何年かよく読めない。墓のありかは本堂の横手で、大きい杉の古木をうしろにして、南にむかって立っている。その傍にはまた高い桜の木が聳えていて、枝はあたかも墓の上を掩うように大きく差し出ている。周囲にはたくさんの古い墓がある。杉の立木は昼を暗くする程に繁っている。「仮名手本忠臣蔵」の作者|竹田出雲《たけだいずも》に斧九太夫《おのくだゆう》という名を与えられて以来、ほとんど人非人のモデルであるように、あまねく世間に伝えられている大野九郎兵衛という一個の元禄《げんろく》武士は、ここを永久の住み家と定めているのである。
一昨年初めて参詣した時には、墓のありかが知れないので寺僧に頼んで案内してもらった。彼は品のよい若僧《にゃくそう》で、いろいろ詳しく話してくれた。その話に拠《よ》ると、その当時のこの磯部には浅野《あさの》家所領の飛び地が約三百石ほどあった。その縁故に因って、大野は浅野家滅亡の後ここに来て身を落ちつけたらしい。そうして、大野とも云わず、九郎兵衛とも名乗らず、単に遊謙《ゆうけん》と称する一個の僧となって、小さい草堂《そうどう》を作って朝夕に経を読み、かたわらには村の子供たちを集めて読み書きを指南していた。彼が直筆《じきひつ》の手本というものが今も村に残っている。磯部に於ける彼は決して不人望ではなかった。弟子たちにも親切に教えた、いろいろの慈善をも施した、碓氷川の堤防も自費で修理した。墓碑に寛延の年号を刻んであるのを見ると、よほど長命であったらしい。独身の彼は弟子たちの手に因って其の亡骸《なきがら》をここに葬られた。
「これだけ立派な墓が建てられているのを見ると、村の人にはよほど敬慕されていたんでしょうね。」と、わたしは云った。
「そうかも知れません。」
僧は彼に同情するような柔らかい口振りであった。たとえ不忠者にもせよ、不義者にもあれ、縁あって我が寺内に骨を埋めたからは、平等の慈悲を加えたいという宗教家の温かい心か、あるいは
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