ってしまえ。」を呶鳴るものが五、六人ある。わたしも負けない気になって、「子供が紙鳶を取って、やってしまう奴があるものか。」と、大きな声で呶鳴りかえすと、大勢の客が一度に笑い出した。高座の芸人たちも笑った。ともかくも無事に、その紙鳶を受取って元の席に戻ってくると、なぜそんな詰まらないことを云うのだと、一緒に行っていた母や姉に叱られた。その紙鳶はよくよく私に縁が無かったとみえて、あくる年の正月二日に初めてそれを揚げに出ると、たちまちに糸が切れて飛んでしまった。
近年は春秋二季の大掃除というものがあるので――これは明治三十二年の秋から始まったように記憶している。――特に煤掃《すすは》きをする家は稀であるらしいが、その頃はどこの家でも十二月にはいって煤掃きをする。手廻しのいい家は月初めに片付けてしまうが、もう数《かぞ》え日《び》という二十日過ぎになってトントンバタバタと埃《ほこり》を掃き立てている家がたくさんある。商店などは昼間の商売が忙がしいので、日がくれてから提灯をつけて煤掃きに取りかかるのもある。なにしろ戸々《ここ》で思い思いに掃き立てるのであるから、その都度《つど》に近所となりの迷惑は思いやられるが、お互いのことと諦《あきら》めて別に苦情もなかったらしい。
江戸時代には十二月十三日と大抵きまっていたのを、維新後にはその慣例が頽《くず》れてしまったので、お互いに迷惑しなければならないなどと、老人たちは呟《つぶや》いていた。
もう一つの近所迷惑は、かの餅搗きであった。米屋や菓子屋で餅を搗くのは商売として已《や》むを得ないが、そのころには俗にひきずり餅というのが行なわれた。搗屋が臼《うす》や釜《かま》の諸道具を車につんで来て、家々の門内や店先で餅を搗くのである。これは依頼者の方であらかじめ糯米《もちごめ》を買い込んでおくので、米屋や菓子屋にあつらえるよりも経済であると云うのと、また一面には世間に対する一種の見栄もあったらしい。又なんという理窟もなしに、代々の習慣でかならず自分の家で搗かせることにしているのもあったらしい。勿諭、この搗屋も大勢あったには相違ないが、それでも幾人か一組になって、一日に幾ヵ所も掛いて廻るのであるから、夜のあけないうちから押し掛けて来る。そうして、幾臼かの餅を搗いて、祝儀を貰って、それからそれへと移ってゆくので、遅いところへ来るのは夜更《よふ》けにもなる。なにしろ大勢がわいわい云って餅を搗き立てるのであるから、近所となりに取っては安眠妨害である。殊に釜の火を熾《さか》んに焚《た》くので、風のふく夜などは危険でもある。しかしこれに就《つ》いても近所から苦情が出たという噂も聞かなかった。
運が悪いと、ゆうべは夜ふけまで隣りの杵《きね》の音にさわがされ、今朝は暗いうちから向うの杵の音に又おどろかされると云うようなこともあるが、これも一年一度の歳の暮れだから仕方がないと覚悟していたらしい。現にわたしなども霜夜の枕にひびく餅の音を聴きながら、やがて来る春のたのしみを夢みたもので――有明《ありあけ》は晦日《みそか》に近し餅の音――こうした俳句のおもむきは到るところに残っていた。
冬至《とうじ》の柚湯《ゆずゆ》――これは今も絶えないが、そのころは物価が廉《やす》いので、風呂のなかには柚がたくさんに浮かんでいるばかりか、心安い人々には別に二つ三つぐらいの新しい柚の実をくれたくらいである。それを切って酒にひたして、ひび薬にすると云って、みんなが喜んで貰って帰った。なんと云っても、むかしは万事が鷹揚《おうよう》であったから、今日のように柚湯とは名ばかりで、風呂じゅうをさがし廻って僅《わず》かに三つか四つの柚を見つけ出すのとは雲泥《うんでい》の相違であった。
冬至の日から獅子舞が来る。その囃子の音を聴きながら柚湯のなかに浸っているのも、歳の暮れの忙《せわ》しいあいだに何となく春らしい暢《のび》やかな気分を誘い出すものであった。
わたしはこういう悠長な時代に生まれて、悠長な時代に育って来たのである。今日の劇《はげ》しい、目まぐるしい世のなかに堪えられないのも無理はない。[#地付き](大正13・12「女性」)
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新旧東京雑題
祭礼
東京でいちじるしく廃《すた》れたものは祭礼《まつり》である。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王《さんのう》、神田の明神《みょうじん》、深川《ふかがわ》の八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのであるが、その祭礼はむかしの姿をとどめないほどに衰えてしまった。たとい東京に生まれたといっても、二十代はもちろん、三十代の人では、ほんとうの祭礼らしいものを見た者はあるまい。それほどの遠い昔から、東京の祭礼は衰えてしまったのである。
震災以後は格別、その以前には型ばかりの祭礼を行なわないでもなかったが、それは文字通りの「型ばかり」で、軒提灯に花山車《はなだし》ぐらいにとどまっていた。その花山車も各町内から曳《ひ》き出すというわけではなく、氏子《うじこ》の町々も大体においてひっそり閑としていて、いわゆる天下祭りなどという素晴らしい威勢はどこにも見いだされなかった。
わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年の九月が名残《なご》りで、その時には祭礼番附が出来た。その祭礼ちゅうに九月十五日の大風雨《おおあらし》があって、東京府下だけでも丸|潰《つぶ》れ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五戸という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒された。それでも土地柄だけに、その後も隔年の大祭を怠らなかったが、その繁昌は遂に十七年度の昔をくり返すに至らず、いつとはなしに型ばかりのものになってしまった。
山王の祭礼は三大祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも最も華麗をきわめたのである。わたしは子供のときから麹町に育って、氏子の一人であったために、この祭礼を最もよく知っているが、これは明治二十年六月の大祭を名残りとして、その後はいちじるしく衰えた。近年は神田よりも寂しいくらいである。
深川の八幡はわたしの家から遠いので、詳しいことを知らないが、これも明治二十五年の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼が賑やかに出来たという噂を聞かないようである。ここは山車や踊り屋台よりも各町内の神輿《みこし》が名物で、俗に神輿祭りと呼ばれ、いろいろの由緒つきの神輿が江戸の昔からたくさんに保存されていたのであるが、先年の震災で大かた焼亡《しょうもう》したことと察せられる。
そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代における型ばかりの祭礼を見たのでは、とても昔日《せきじつ》の壮観を想像することは出来ない。京の祇園会《ぎおんえ》や大阪《おおさか》の天満《てんま》祭りは今日どうなっているか知らないが、東京の祭礼は実際においてほろびてしまった。しょせん再興はおぼつかない。
湯屋
湯屋を風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬《さんば》の作に「浮世風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯《せんとう》とか湯屋《ゆうや》とかいうのが普通で、元禄《げんろく》のむかしは知らず、文化文政《ぶんかぶんせい》から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。
湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。
五月節句の菖蒲《しょうぶ》湯、土用のうちの桃《もも》湯、冬至の柚《ゆず》湯――そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉を沸かした湯にはいると、虫に食われないとか云うのであったが、客が喜ばないのか、湯屋の方で割に合わないのか、いつとはなしに止《や》められてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲湯も柚湯も型ばかりになってしまって、これもやがては止められることであろう。
むかしは菖蒲湯または柚湯の日には、湯屋の番台に三方《さんぼう》が据えてあって、客の方では「お拈《ひね》り」と唱え、湯銭を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりも幾分か余計につつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲湯や柚湯の日でも誰もおひねりを置いてゆく者がない。湯屋の方でも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋に取っては菖蒲や柚代だけが全然損失に帰《き》するわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲や柚を入れない。甚だしいのになると、風呂から外へ持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。柚の実を麻袋に入れてつないで置くのもある。こんな殺風景なことをする程ならば、いっそ桃湯同様に廃止した方がよさそうである。
朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどと威張ったものであるが、その自慢の朝湯も大正八年の十月から一斉に廃止となった。早朝から風呂を焚いては湯屋の経済が立たないと云うのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それは極めて少数で、大体においては午後一時ごろに行ってもまだ本当に沸いていないというのが通例になってしまった。
江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。朝湯は十銭取ったらよかろうなどと云う説もあるが、これも実行されそうもない。
そば屋
そば屋は昔よりもいちじるしく綺麗になった。どういうわけか知らないが、湯屋と蕎麦《そば》屋とその歩調をおなじくするもので、湯銭があがれば蕎麦の代もあがり、蕎麦の代が下がれば湯屋も下がるということになっていたが、近年は湯銭の五銭に対して蕎麦の盛《もり》・掛《かけ》は十銭という倍額になった。もっとも、湯屋の方は公衆の衛生問題という見地から、警視庁でその値あげを許可しないのである。
私たちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこの蕎麦屋もみな汚《きたな》いものであった。綺麗な蕎麦屋に蕎麦の旨いのは少ない、旨い蕎麦を食いたければ汚い家へゆけと昔から云い伝えたものであるが、その蕎麦屋がみな綺麗になった。そうして、大体においてまずくなった。まことに古人われを欺《あざむ》かずである。山路愛山《やまじあいざん》氏が何かの雑誌に蕎麦のことを書いて、われわれの子供などは蕎麦は庖丁《ほうちょう》で切るものであると云うことを知らず、機械で切るものと心得て食っているとか云ったが、確かに機械切りの蕎麦は旨くないようである。そば切り庖丁などという詞《ことば》はいつか消滅するであろう。
人間が贅沢になって来たせいか、近年はそば屋で種物《たねもの》を食う人が非常に多くなった。それに応じて種物の種類もすこぶる殖《ふ》えた。カレー南蛮などという不思議なものさえ現われた。ほんとうの蕎麦を味わうものは盛か掛を食うのが普通で、種物などを喜んで食うのは女子供であると云うことになっていたが、近年はそれが一変して、銭《ぜに》のない人間が盛・掛を食うと云うことになったらしい。種物では本当のそばの味はわからない。そば屋が蕎麦を
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