後七、八時を過ぎるとほとんど人通りがない。わたしは重い雨傘をかたむけて、有楽町から日比谷見附を過ぎて堀端へ来かかると、俄《にわ》かにうしろから足音が聞えた。足駄《あしだ》の音ではなく、草履《ぞうり》か草鞋《わらじ》であるらしい。その頃は草鞋もめずらしくないので、わたしも別に気に留めなかったが、それが余りに私のうしろに接近して来るので、わたしは何ごころなく振り返ると、直ぐうしろから一人の女があるいて来る。
 傘を傾けているので、女の顔は見えないが、白地に桔梗《ききょう》を染め出した中形《ちゅうがた》の単衣《ひとえもの》を着ているのが暗いなかにもはっきりと見えたので、私は実にぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。右にも左にも灯のひかりの無い堀端で、女の着物の染め模様などが判ろう筈がない。幽霊か妖怪か、いずれ唯者《ただもの》ではあるまいと私は思った。暗い中で姿の見えるものは妖怪であるという古来の伝説が、わたしを強くおびやかしたのである。
 まさかにきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と叫んで逃げる程でもなかったが、わたしは再び振り返る勇気もなく、ただ真っ直ぐに足を早めてゆくと、女もわたしを追うように付
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