暮れてから帰宅するので、この柳のかげに休息して涼風に浴するの機会がなく、年ごとに繁ってゆく青い蔭をながめて、昔年《せきねん》の涼味を偲《しの》ぶに過ぎなかったが、わが国に帝国議会というものが初めて開かれても、ここの柳は伐られなかった。日清戦争が始まっても、ここの柳は伐られなかった。人は昔と違っているであろうが、氷屋や甘酒屋の店も依然として出ていた。立ちン[#「ン」は小書き]坊も立っていた。
 その懐かしい少年時代の夢を破る時が遂に来たった。かの長州ヶ原がいよいよ日比谷公園と改名する時代が近づいて、まず其の周囲の整理が行なわれることになった。鰻の釣れる溝《どぶ》の石垣が先ず破壊された。つづいてかの柳の大樹が次から次へと伐り倒された。それは明治三十四年の秋である。涼しい風が薄寒い秋風に変って、ここの柳の葉もそろそろ散り始める頃、むざんの斧《おの》や鋸《のこ》がこの古木に祟《たた》って、浄瑠璃《じょうるり》に聞き慣れている「丗三間堂棟由来《さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい》」の悲劇をここに演出した。立ちン[#「ン」は小書き]坊もどこへか巣を換えた。氷屋も甘酒屋も影をかくした。
 それから
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