《なりこま》屋ァの声が盛んに湧くと、それを圧倒するように、定高に対して成田《なりた》屋ァ、親玉ァの声が三方からどっと起る。
 大判司と定高は花道で向い合った。ふたりは桜の枝を手に持っている。
「畢竟《ひっきょう》、親の子のと云うは人間の私《わたくし》、ひろき天地より観るときは、おなじ世界に湧いた虫。」と、大判司は相手に負けないような眼をみはって空うそぶく。
「枝ぶり悪き桜木は、切って接《つ》ぎ木をいたさねば、太宰の家《いえ》が立ちませぬ。」と、定高は凛《りん》とした声で云い放つ。
 観客はみな酔ってしまったらしく、誰ももう声を出す者もない。少年も酔ってしまった。かれは二時間にあまる長い一幕の終るまで身動きもしなかった。

 その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山の舞台に立った、かの四人の歌舞伎|俳優《やくしゃ》のうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わずかに生き残るものは福助の歌右衛門《うたえもん》だけである。新富座も今度の震災で灰となってしまった。一切の過去は消滅した。
 しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して、ひとり楽し
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