観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその柝の音の一つ一つを聴くたびに、胸を跳《おど》らせて正面をみつめている。

 幕があく。「妹背山婦女庭訓《いもせやまおんなていきん》」吉野川《よしのがわ》の場である。岩にせかれて咽《むせ》び落ちる山川を境いにして、上《かみ》の方《かた》の背山にも、下《しも》の方の妹山《いもやま》にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段《ひなだん》が飾られて、若い美しい姫が腰元どもと一緒にさびしくその雛にかしずいている。背山の家には簾《すだれ》がおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じ文《ぶみ》をむすび付けて打ち込んだ水の音におどろかされて、簾がしずかに巻きあげられると、そこにはむらさきの小袖に茶宇《ちゃう》の袴をつけた美少年が殊勝《しゅしょう》げに経巻《きょうかん》を読誦《どくじゅ》している。高島《たかしま》屋ァとよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川|左団次《さだんじ》の久我之助《こがのすけ》である。
 姫は太宰《だざい》の息女|雛鳥《ひなどり》で、中村|福助《ふくすけ》である。雛
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