紋を起さなかった。私はいよいよ失望した。三十七年には日露戦争が始まった。その四月に歌舞伎座で森鴎外《もりおうがい》博士の「日蓮辻説法《にちれんつじせっぽう》」が上場された。恐らくそれは舎弟の三木竹二《みきたけじ》君の斡旋《あっせん》に因《よ》るものであろうが、劇界では破天荒の問題として世間の注目を惹《ひ》いた。戦争中にも拘らず、それが一つの呼物になったのは事実であった。
 その頃から私は従軍記者として満洲へ出張していたので、内地の劇界の消息に就いてはなんにも耳にする機会がなかった。その年の八月に左団次の死んだことを新聞紙上で僅《わず》かに知ったに過ぎなかった。実際、軍国の劇壇には余りいちじるしい出来事も無かったらしかった。

 明治三十八年五月、わたしが戦地から帰った後に、各新聞社の演劇担当記者らが集まって、若葉会という文士劇を催した。今日では別に珍しい事件でも何でもないが、その当時にあっては、これは相当に世間の注目を惹《ひ》くべき出来事であった。第一回は歌舞伎座で開かれて、わたしが第一の史劇「天目山《てんもくさん》」二幕を書いた。そのほかには、かの「日蓮辻説法」も上演された。これが私
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