別に何らかの主張があるのか、若い僧の心持は私には判らなかった。油蝉の暑苦しく鳴いている木の下で、わたしは厚く礼を云って僧と別れた。僧の痩せた姿は大きな芭蕉《ばしょう》の葉のかげへ隠れて行った。
 自己の功名の犠牲として、罪のない藤戸《ふじと》の漁民を惨殺した佐々木盛綱は、忠勇なる鎌倉武士の一人として歴史家に讃美されている。復讐《ふくしゅう》の同盟に加わることを避けて、先君の追福と陰徳とに余生を送った大野九郎兵衛は、不忠なる元禄武士の一人として浄瑠璃《じょうるり》の作者にまで筆誅されてしまった。私はもう一度かの僧を呼び止めて、元禄武士に対する彼の詐《いつわ》らざる意見を問い糺《ただ》して見ようかと思ったが、彼の迷惑を察してやめた。
 今度行ってみると、佐々木の墓も大野の墓も旧《もと》のままで、大野の墓の花筒には白いつつじが生けてあった。かの若い僧が供えたのではあるまいか。わたしは僧を訪わずに帰ったが、彼の居間らしい所には障子が閉じられて、低い四つ目垣の裾《すそ》に芍薬《しゃくやく》が紅《あか》く咲いていた。

 旅館の門を出て右の小道をはいると、丸い石を列べた七、八段の石段がある。登り降
前へ 次へ
全408ページ中241ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング