は下駄を突っかけて、そそくさと出て行ってしまった。午後二時頃の銭湯は広々と明るかった。狭い庭には縁日で買って来たらしい大きい鉢の梅が、硝子戸《ガラスど》越しに白く見えた。
 着物をぬいで風呂場へゆくと、流しの板は白く乾いていて、あかるい風呂の隅には一人の若い男の頭がうしろ向きに浮いているだけであった。すき透るような新しい湯は風呂いっぱいに漲《みなぎ》って、輪切りの柚《ゆず》があたたかい波にゆらゆらと流れていた。窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、陽炎《かげろう》のように立ち迷う湯気のなかに、黄いろい木実《このみ》の強い匂いが籠《こも》っているのも快《こころよ》かった。わたしはいい心持になって先ずからだを湿《しめ》していると、隅の方に浮いていた黒い頭がやがてくるりと振り向いた。
「今日《こんにち》は。」
「押し詰まってお天気で結構です。」と、私も挨拶した。
 彼は近所の山口《やまぐち》という医師の薬局生であった。わたしと別に懇意でもないが、湯屋なじみで普通の挨拶だけはするのであった。建具屋のおじいさんが書生さんと云ったのはこの男で、左官屋の徳さんはおそらく山口医師の診察を受けていたの
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