吟味しなくなったのも当然である。
地方の人が多くなった証拠として、饂飩《うどん》を食う客が多くなった。蕎麦屋は蕎麦を売るのが商売で、そば屋へ行って饂飩をくれなどと云うと、田舎者として笑われたものであるが、この頃は普通のそば屋ではみな饂飩を売る。阿亀《おかめ》とか天ぷらとかいって注文すると、おそばでございますか、饂飩台でございますかと聞き返される場合が多い。黙っていれば蕎麦にきまっていると思うが、それでも念のために饂飩であるかないかを確かめる必要がある程に、饂飩を食う客が多くなったのである。
かの鍋焼うどんなども江戸以来の売り物ではない。上方《かみがた》では昔から夜なきうどんの名があったが、江戸は夜そば売りで、俗に風鈴《ふうりん》そばとか夜鷹《よたか》そばとか呼んでいたのである。鍋焼うどんが東京に入り込んで来たのは明治以後のことで、黙阿弥《もくあみ》の「嶋鵆月白浪《しまちどりつきのしらなみ》」は明治十四年の作であるが、その招魂社《しょうこんしゃ》鳥居前の場で、堀の内まいりの男が夜そばを食いながら、以前とちがって夜鷹そばは売り手が少なくなって、その代りに鍋焼うどんが一年増しに多くなった
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