ナにこんな話がある。大勢の集まったところで虎の話が始まると、その中の一人がひどく顔の色を変えた。聞いてみると、その人はかつて虎に出逢って危うくも逃れた経験を有していたのである。私も馬車に轢かれそうになった経験があるので、交通事故には人一倍のショックを感じられてならない。
 そのとき私のからだは無事であったが、抱えていた五月人形の箱は無論投げ出されて、金太郎も飾り馬もメチャメチャに毀れた。よんどころなく銀座へ行って、再び同じような物を買って持参したが、先方へ行っては途中の出来事を話さなかった。初の節句の祝い物が途中で毀れたなどと云っては、先方の人たちが心持を悪くするかも知れないと思ったからである。その男の児は成人に到らずして死んだ。[#地付き](昭和10・8「文藝春秋」)
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銀座


 わたしは明治二十五年から二十八年まで満三年間、正しく云えば京橋区|三十間堀《さんじっけんぼり》一丁目三番地、俗にいえば銀座の東仲《ひがしなか》通りに住んでいたので、その当時の銀座の事ならば先ずひと通りは心得ている。すなわち今から四十余年前の銀座である。その記憶を一々ならべ立ててもいられないから、ここでは歳末年始の風景その他を語ることにする。
 由来、銀座の大通りに夜店の出るのは、夏の七月、八月、冬の十二月、この三ヵ月に限られていて、その以外の月には夜店を出さないのが其の当時の習わしであったから、初秋の夜風が氷屋の暖簾《のれん》に訪ずれる頃になると、さすがの大通りも宵から寂寥《せきりょう》、勿論そぞろ歩きの人影は見えず、所用ある人々が足早に通りすぎるに過ぎない。商店は電燈をつけてはいたが、今から思えば夜と昼との相違で、名物の柳の木蔭などは薄暗かった。裏通りはほとんどみな住宅で、どこの家でもランプを用いていたから、往来はいっそう暗かった。
 その薄暗い銀座も十二月に入ると、急に明るくなる。大通りの東側は勿論、西側にも露店がいっぱいに列ぶこと、今日の歳末と同様である。尾張町《おわりちょう》の角や、京橋の際《きわ》には、歳《とし》の市《いち》商人の小屋も掛けられ、その他の角々にも紙鳶《たこ》や羽子板などを売る店も出た。この一ヵ月間は実に繁昌で、いわゆる押すな押すなの混雑である。二十日《はつか》過ぎからはいよいよ混雑で、二十七、八日ごろからは、夜の十時、十一時ごろまで露店の灯が消えない。大晦日《おおみそか》は十二時過ぎるまで賑わっていた。
 但しその賑わいは大晦日かぎりで、一夜明ければ元の寂寥にかえる。さすがに新年早々はどこの店でも門松《かどまつ》を立て、国旗をかかげ、回礼者の往来もしげく、鉄道馬車は満員の客を乗せて走る。いかにも春の銀座らしい風景ではあるが、その銀座の歩道で、追い羽根をしている娘たちがある。小さい紙鳶をあげている子供がある。それを咎める者もなく、さのみ往来の妨害にもならなかったのを考えると、新年の混雑も今日とは全然比較にならない事がよく判るであろう。大通りでさえ其の通りであるから、裏通りや河岸通りは追い羽根と紙鳶の遊び場所で、そのあいだを万歳《まんざい》や獅子舞がしばしば通る。その当時の銀座界隈には、まだ江戸の春のおもかげが残っていた。
 新年の賑わいは昼間だけのことで、日が暮れると寂しくなる。露店も元日以後は一軒も出ない。商店も早く戸を閉める。年始帰りの酔っ払いがふらふら迷い歩いている位のもので、午後七、八時を過ぎると、大通りは暗い街《まち》になって、その暗いなかに鉄道馬車の音がひびくだけである。
 今日と違って、その頃は年賀郵便などと云うものもなく、大抵は正直に年始まわりに出歩いたのであるから、正月も十日過ぎまでは大通りに回礼者の影を絶たず、昼は毎日賑わっていたが、日が暮れると前に云った通りの寂寥、露店も出なければ散歩の人も出ず、寒い夜風のなかに暗い町の灯が沈んで見える。今日では郊外の新開地へ行っても、こんなに暗い寂しい新年の宵の風景は見いだされまい。東京の繁華の中心という銀座通りが此の始末であるから、他は察すべしである。
 その頃、銀座通りの飲食店といえば、東側に松田という料理屋がある。それを筆頭として天ぷら屋の大新、同じく天虎、藪蕎麦《やぶそば》、牛肉屋の古川、鳥屋の大黒屋ぐらいに過ぎず、西側では料理屋の千歳、そば屋の福寿庵、横町へはいって例の天金、西洋料埋の清新軒。まずザッとこんなものであるから、今日のカフェーのように遊び半分にはいるという店は皆無で、まじめに飲むか食うかのほかはない。吉川のおますさんという娘が評判で、それが幾らか若い客を呼んだという位のことで、他に色っぽい噂はなかった。したがって、どこの飲食店も春は多少賑わうと云う以外に、春らしい気分も漂っていなかった。こう云うと、甚だ荒涼寂寥たるものであるが
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