過ぎなかったであろう。その狭い往来に五、六株の大樹が繁っているのであるから、邪魔といえば邪魔であるが、電車も自動車もない時代にはさのみの邪魔とも思われないばかりか、長い堀端を徒歩する人々にとっては、その地帯が一種のオアシスとなっていたのである。
 冬はともあれ、夏の日盛りになると、往来の人々はこの柳のかげに立ち寄って、大抵はひと休みをする。片肌ぬいで汗を拭いている男もある。蝙蝠傘《こうもりがさ》を杖《つえ》にして小さい扇を使っている女もある。それらの人々を当て込みに甘酒屋が荷をおろしている。小さい氷屋の車屋台《くるまやたい》が出ている。今日ではまったく見られない堀端の一風景であった。
 それにつづく日比谷公園は長州《ちょうしゅう》屋敷の跡で、俗に長州ヶ原と呼ばれ、一面の広い草原となって取り残されていた。三宅坂《みやけざか》の方面から参謀本部の下に沿って流れ落ちる大溝《おおどぶ》は、裁判所の横手から長州ヶ原の外部に続いていて、むかしは河獺《かわうそ》が出るとか云われたそうであるが、その古い溝の石垣のあいだから鰻《うなぎ》が釣れるので、うなぎ屋の印半纏を着た男が小さい岡持《おかもち》をたずさえて穴釣りをしているのをしばしば見受けた。その穴釣りの鰻屋も、この柳のかげに寄って来て甘酒などを飲んでいることもあった。岡持にはかなり大きい鰻が四、五本ぐらい蜿《のた》くっているのを、私は見た。
 そのほかには一種の軽子《かるこ》、いわゆる立ちン[#「ン」は小書き]坊も四、五人ぐらいは常に集まっていた。下町から麹町四谷方面の山の手へ登るには、ここらから道路が爪先あがりになる。殊に眼の前には三宅坂がある。この坂も今よりは嶮《けわ》しかった。そこで、下町から重い荷車を挽《ひ》いて来た者は、ここから後押《あとお》しを頼むことになる。立ちン[#「ン」は小書き]坊はその後押しを目あてに稼ぎに出ているのであるが、距離の遠近によって二銭三銭、あるいは四銭五銭、それを一日に数回も往復するので、その当時の彼らとしては優に生活が出来たらしい。その立ちン[#「ン」は小書き]坊もここで氷水を飲み、あま酒を飲んでいた。
 立ちン[#「ン」は小書き]坊といっても、毎日おなじ顔が出ているのである。直ぐ傍《わき》には桜田門外の派出所もある。したがって、彼らは他の人々に対して、無作法や不穏の言動を試みることはない。ここに休んでいる人々を相手に、いつも愉快に談笑しているのである。私もこの立ちン[#「ン」は小書き]坊君を相手にして、しばしば語ったことがある。
 私が最も多くこの柳の蔭に休息して、堀端の涼風の恩恵にあずかったのは、明治二十年から二十二年の頃、すなわち私の十六歳から十八歳に至る頃であった。その当時、府立の一中は築地の河岸、今日の東京劇場所在地に移っていたので、麹町に住んでいる私は毎日この堀端を往来しなければならなかった。朝は登校を急ぐのと、まだそれ程に暑くもないので、この柳を横眼に見るだけで通り過ぎたが、帰り道は午後の日盛りになるので、築地から銀座を横ぎり、数寄屋橋見附《すきやばしみつけ》をはいって有楽町《ゆうらくちょう》を通り抜けて来ると、ここらが丁度休み場所である。
 日蔭のない堀端の一本道を通って、例のうなぎ釣りなぞを覗《のぞ》きながら、この柳の下にたどり着くと、そこにはいつでも三、四人、多い時には七、八人が休んでいる。立ちン[#「ン」は小書き]坊もまじっている。氷水も甘酒も一杯八|厘《りん》、その一杯が実に甘露の味であった。
 長い往来は強い日に白く光っている。堀端の柳には蝉《せみ》の声がきこえる。重い革包《カバン》を柳の下枝にかけて、帽子をぬいで、洋服のボタンをはずして、額の汗をふきながら一杯八厘の甘露をすすっている時、どこから吹いて来るのか知らないが、一陣の涼風が青い影をゆるがして颯《さっ》と通る。まったく文字通りに、涼味骨に透るのであった。
「涼しいなあ。」と、私たちは思わず声をあげて喜んだ。時には跳《おど》りあがって喜んで、周囲の人々に笑われた。私たちばかりでなく、この柳のかげに立ち寄って、この涼風に救われた人々は、毎日何十人、あるいは何百人の多きにのぼったであろう。幾人の立ちン[#「ン」は小書き]坊もここを稼ぎ場とし、氷屋も甘酒屋もここで一日の生計を立てていたのである。いかに鬱蒼《うっそう》というべき大樹であっても、わずかに五株か六株の柳の蔭がこれほどの功徳《くどく》を施していようとは、交通機関の発達した現代の東京人には思いも及ばぬことであるに相違ない。その昔の江戸時代には、ほかにもこういうオアシスがたくさん見いだされたのであろう。
 少年時代を通り過ぎて、わたしは銀座《ぎんざ》辺の新聞社に勤めるようになっても、やはり此の堀端を毎日往復した。しかも日が
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