。平河小学校などは比較的に広い方であったが、往来に面したところに低い堤《どて》を作って、大きい樫《かし》の木を栽えつらねてあるだけで、ほかにはなんらの設備もなかった。片隅にブランコが二つ設けてあったが、いっこうに地ならしがしてないので、雨あがりなどには其処《そこ》らは一面の水溜りになってしまって、ブランコの傍《そば》などへはとても寄り付くことは出来なかった。勿論、アスファルトや砂利が敷いてあるでもないから、雨あがりばかりでなく、冬は雪どけや霜どけで路《みち》が悪い。そこで転んだり起《た》ったりするのであるから、着物や袴は毎日泥だらけになるので、わたしなどは家で着る物と学校へ着てゆく物とが区別されていて、学校から帰るとすぐに着物を着かえさせられた。
 運動時間は一時間ごとに十分間、午《ひる》の食後に三十分間であったが、別に一定の遊戯というものも無いから、男の子は縄飛び、相撲、鬼ごっこ、軍《いくさ》ごっこなどをする。女の子も鬼ごっこをするか、鞠《まり》をついたりする。男の子のあそびには相撲が最も行なわれた。そのころの小学校では体操を教えなかったから、生徒の運動といえば唯むやみに暴《あば》れるだけであった。したがって今日のようなおとなしい子供も出来なかったわけであろう。その頃には唱歌も教えなかった。運動会や遠足会もなかった。
 もし運動会に似たようなものを求むれば、土曜日の午後や日曜日に大勢《おおぜい》が隊を組んで、他の学校へ喧嘩《けんか》にゆくことである。相手の学校でも隊を組んで出て来る。その頃は所々に屋敷あとの広い草原などがあったから、そこで石を投げ合ったり、棒切れで叩き合ったりする。中には自分の家から親父《おやじ》の脇差《わきざし》を持ち出して来るような乱暴者もあった。時には往来なかで闘う事もあったが、巡査も別に咎めなかった。学校では喧嘩をしてはならぬと云うことになっていたが、それも表向きだけのことで、若い教師のうちには他の学校に負けるなと云って、内々で種々の軍略を授けてくれるのもあった。それらの事をかんがえると、くどくも云うようであるが、今日の子供たちは実におとなしい。
 その当時は別に保護者会とか父兄会とかいうものも無かったが、むかしの寺子屋の遺風が存していたとみえて、教師と父兄との関係はすこぶる親密であった。父兄や姉も学校に教師をたずねて、子弟のことをいろいろ頼むことがある。教師も学校の帰途に生徒の家をたずねて、父兄にいろいろの注意をあたえることもある。したがって、学校と家庭の連絡は案外によく結び付けられているようであった。その代りに、学校で悪いことをすると、すぐに家へ知れるので、私たちは困った。[#地付き](昭和2・10「時事新報」)
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三崎町の原


 十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田《かんだ》の三崎町《みさきちょう》まで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが、奥の方へは震災以後一度も踏み込んだことがなかったので、久し振りでぶらぶらあるいてみると、震災以前もここらは随分混雑しているところであったが、その以後は更に混雑して来た。区画整理が成就した暁には、町の形が又もや変ることであろう。
 市内も開ける、郊外も開ける。その変化に今更おどろくのは甚だ迂闊《うかつ》であるが、わたしは今、三崎町三丁目の混雑の巷《ちまた》に立って、自動車やトラックに脅《おびや》かされてうろうろ[#「うろうろ」に傍点]しながら、周囲の情景のあまりに変化したのに驚かされずにはいられなかった。いわゆる隔世《かくせい》の感というのは、全くこの時の心持であった。
 三崎町一、二丁目は早く開けていたが、三丁目は旧幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷の跡で、明治の初年から陸軍の練兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜祭日には自由に通行を許された。しかも草刈りが十分に行き届かなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらが到るところに見いだされた。北は水道橋に沿うた高い堤《どて》で、大樹が生い茂っていた。その堤の松には首縊《くびくく》りの松などという忌《いや》な名の付いていたのもあった。野犬が巣を作っていて、しばしば往来の人を咬《か》んだ。追剥《おいは》ぎも出た。明治二十四年二月、富士見町《ふじみちょう》の玉子屋の小僧が懸け取りに行った帰りに、ここで二人の賊に絞め殺された事件などは、新聞の三面記事として有名であった。
 わたしは明治十八年から二十一年に至る四年間、すなわち私が十四歳から十七歳に至るあいだ、毎月一度ずつはほとんど欠かさずに、この練兵場を通り抜けなければならなかった。その当時はもう練兵をやめてしまって、三菱に払い下げられたように聞いていたが、三菱の方でも直ぐ
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