それを水中に沈めるのを例とし、その前夜に燈籠流しを行なうことは前に云った通りである。
 流燈の由来はそれで判った。ともかくも一度は見て置こうかと思っていると、三十日の夜に額田六福《ぬかだろっぷく》が熱海から廻って来た。額田も私の話を聴かされて、あしたの晩は一緒に行こうという。しかも三十一日の当日は朝のうちに俄雨、午後は曇天で霧が深い。元箱根までわざわざ登って行って、雨天順延では困ると、二人はすこしく躊躇していたが、恐らく雨にはなるまいと土地の人たちが云うのに励まされて、七時頃から二人は自動車に乗って出た。
 箱根遊船会社が拓《ひら》いたという専用道路をのぼって行くと、一路平坦、殊に先刻から懸念していた山霧は次第に晴れて、陰暦五日の月があらわれたので、まず安心とよろこんでいると、湖尻《うみじり》に着いた頃から燈籠の光がちらちら見えはじめた。元箱根に行き着くと、町はなかなか賑わっている。大祭を当込みの露店商人が両側に店をならべて、土地の人々と遊覧の人々の往来しげく、山の上とは思えないような雑沓である。昔も相当に繁昌したのではあろうが、所詮《しょせん》は蕭条《しょうじょう》たる山上の孤駅、その繁昌は今日の十分の一にも及ばなかったに相違ない。
 満巻上人のむかしは勿論、曾我五郎の箱王丸《はこおうまる》が箱根権現に勤めていたのも遠い昔であるから、それらの時代の回顧はしばらく措《お》いて近世の江戸時代になっても、箱根の関守《せきもり》たちはどの程度の繁昌をこの夜に見出したであろうか。第一に湖畔の居住者が少ない。遊覧客も少ない。今日では流燈の数およそ一千箇と称せられているが、その燈籠の光も昔はさびしいものであったろうと察せられる。
 往来ばかりでなく、湖畔の旅館はみな満員である。私たちは車を降りて、空《す》いていそうな旅館にはいると、ここもやはり満員、広い食堂に椅子をならべて見物席にあててあるが、飲みながら観る者、食いながら観るもの、隅から隅まで押合うような混雑で、芸妓らもまじって騒いでいる。東宝映画の一行もここに陣取って、しきりに撮影の最中であった。
 燈籠は五色で、たなばたの色紙のようなもので貼られてある。それが大きい湖水の上に星のごとく乱れているのであるから、いかにも一種の壮観と云い得る。燈籠を流す舟のほかに、囃子の舟もまじっていて、太鼓の音が水にひびいて遠く近くきこえる。またそのあいだを幾艘の大きい遊覧船が満艦飾というように燈籠をかけつらね遊覧客を乗せて漕ぎ廻っている。まずは両国《りょうごく》の川開きともいうべき、華やかな夜の光景である。
 満巻上人に祈り伏せられた悪龍は、その後ふたたび姿をみせないが、九頭龍《くずりゅう》明神と呼ばれて、今も蘆の湖の神と仰がれている。大祭の前夜に行なわれる燈籠流しも、この九頭龍明神を祭るが為であるという。湖水の底に棲む龍神は、今夜の繁昌をいかに眺めているであろうか。神も恐らく今昔の感に堪《た》えないであろう。
 燈籠流しは九時半ごろに終った。今まで湖上を照らしていた沢山《たくさん》の燈籠の火が一つ消え、二つ消えて、水は次第に暗くなった。舟の囃子もやんで、いつの間にか月も隠れた。見物の人々もおいおいに散って、岸の灯かげも薄くなった。私は云い知れない寂寥をおぼえて、闇の色の深くなり行く湖上を暫く眺めていた。
 夜ふけに強羅まで戻るのも億劫《おっくう》であるので、私たちはここに一泊、ほかの座敷にはほとんど徹夜で騒いでいる客もあった。夜があけると、昨夜の流燈はことごとく片付けられて、湖上には全くその影を見せなかった。誰が拾って来たのか、燈籠の一つが食堂のテーブルの上に置かれてあったので、私は手に取って眺めていると、拭《ぬぐ》ったような湖面は俄かに暗くなって、例の驟雨《しゅうう》がさっと降り出して来た。その雨のなかを何処《どこ》かで日ぐらしが啼いていた。[#地付き](昭和13・10「文藝春秋」)



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2004年1月11日修正
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