年内に発送することにした。そのほかには、春に対する準備もない。
 わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常に美事な花をつけると云うことであるが、元日までには恐らく咲くまい。[#地付き](大正十二年十二月二十日)

     箙《えびら》の梅

  狸坂くらやみ坂や秋の暮

 これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。
 坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬき[#「たぬき」に傍点]と云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟《そうくつ》であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。
 しかし私の横町にも人家が軒なみに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみ出せば、麻布第一の繁華の地と称せらるる十番の大通りが眼の前に拡がっている。ここらは震災の被害も少なく、もちろん火災にも逢わなかったのであるから、この頃は私たちのような避難者がおびただしく流れ込んで来て、平常よりも更に幾層の繁昌をましている。殊に歳の暮れに押し詰まって、ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列《なら》んでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢《ひ》かれるか、路ばたの大溝《おおどぶ》へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。
「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。
 そうは云っても、買物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、何かしら買って帰るのである。震災に懲りたのと、経済上の都合とで、無用の品物はいっさい買い込まないことに決めているのであるが、それでも当然買わなければ済まないような必要品が次から次へと現われて来て、いつまで経っても果てしが無いように思われる。ひと口に瓦楽多《がらくた》というが、その瓦楽多道具をよほどたくさんに貯えなければ、人間の家一戸を支えて行かれないものであると云うことを、この頃になってつくづく悟《さと》った。私たちばかりでなく、すべての罹災者は皆どこかで此の失費と面倒とを繰り返しているのであろう。どう考えても、怖るべき禍いであった。
 その鬱憤《うっぷん》をここに洩らすわけではないが、十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘《ぬかるみ》で、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る、買物の人も出る。売る人も、買う人も、足もとの悪いなどには頓着していられないのであろうが、私のような気の弱い者はその泥濘におびやかされて、途中から空《むな》しく引っ返して来ることがしばしばある。
 しかも今夜は勇気をふるい起して、そのぬかるみを踏み、その混雑を冒して、やや無用に類するものを買って来た。わたしの外套の袖の下に忍ばせている梅の枝と寒菊の花がそれである。移転以来、花を生けて眺めるという気分にもなれず、花を生けるような物も具えていないので、さきごろの天長《てんちょう》祝日に町内の青年団から避難者に対して戸毎に菊の花を分配してくれた時にも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土に挿し込んで置くに過ぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店先で徳利のような花瓶を見つけて、ふとそれを買い込んで来たのが始まりで、急に花を生けて見たくなったのである。
 庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともし頃にようやく書き終った原稿をポストに入れながら、夜の七時半頃に十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走《しわす》もだんだんに数《かぞ》え日《び》に迫ったので、混雑もまた予想以上である。そ
前へ 次へ
全102ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング