。殊に東京近傍の温泉場は一泊または日帰りの客が多く、大きい革包《カバン》や行李《こうり》をさげて乗り込んでくるから、せめて三日や四日は滞在するのかと思うと、きょう来て明日《あした》はもう立ち去るのが幾らもある。こうなると、温泉宿も普通の旅館と同様で、文字通りの温泉旅館であるから、それに対して昔の湯治場気分などを求めるのは、頭から間違っているかも知れない。
 それにしても、今日の温泉旅館に宿泊する人たちは思い切ってサバサバしたものである。洗面所で逢っても、廊下で逢っても、風呂場で逢っても、お早うございますの挨拶さえもする人は少ない。こちらで声をかけると、迷惑そうに、あるいは不思議そうな顔をして、しぶしぶながら返事をする人が多い。男は勿論、女でさえも洗面所で顔をあわせて、お早うはおろか、黙礼さえもしないのがたくさんある。こういう人たちは外国のホテルに泊まって、見識らぬ人たちからグード・モーニングなどを浴びせかけられたら、びっくりして宿換えをするかも知れない。そんなことを考えて、私はときどきに可笑《おかし》くなることもある。
 客の心持が変ると共に、温泉宿の姿も昔とはまったく変った。むかしの名所|図絵《ずえ》や風景画を見た人はみな承知であろうが、大抵の温泉宿は茅葺《かやぶ》き屋根であった。明治以後は次第にその建築もあらたまって、東京近傍にはさすがに茅葺きのあとを絶ったが、明治三十年頃までの温泉宿は、今から思えば実に粗末なものであった。
 勿論、その時代には温泉宿にかぎらず、すべての宿屋が大抵古風なお粗末なもので、今日の下宿屋と大差なきものが多かったのであるが、その土地一流の温泉宿として世間にその名を知られている家でも、次の間つきの座敷を持っているのは極めて少ない。そんな座敷があったとしても、それは僅かに二間《ふたま》か三間《みま》で、特別の客を入れる用心に過ぎず、普通はみな八畳か六畳か四畳半の一室で、甚《はなは》だしきは三畳などという狭い部屋もある。
 いい座敷には床の間、ちがい棚は設けてあるが、チャブ台もなければ、机もない。茶箪笥《ちゃだんす》や茶道具なども備えつけていないのが多い。近来はどこの温泉旅館にも机、硯《すずり》、書翰箋《しょかんせん》、封筒、電報用紙のたぐいは備えつけてあるが、そんなものはいっさい無い。
 それであるから、こういう所へ来て私たちの最も困ったのは、机のないことであった。宿に頼んで何か机を貸してくれというと、大抵の家では迷惑そうな顔をする。やがて女中が運んでくるのは、物置の隅からでも引摺り出して来たような古机で、抽斗《ひきだし》の毀れているのがある、脚の折れかかっているのがあるという始末。読むにも書くにも実に不便不愉快であるが、仕方がないから先ずそれで我慢するのほかは無い。したがって、筆や硯にも碌なものはない。それでも型ばかりの硯箱を違い棚に置いてある家はいいが、その都度《つど》に女中に頼んで硯箱を借りるような家もある。その用心のために、古風の矢立《やたて》などを持参してゆく人もあった。わたしなども小さい硯や墨や筆をたずさえて行った。もちろん、万年筆などは無い時代である。
 こういう不便が多々ある代りに、むかしの温泉宿は病いを養うに足るような、安らかな暢《のび》やかな気分に富んでいた。今の温泉宿は万事が便利である代りに、なんとなくがさ[#「がさ」に傍点]ついて落着きのない、一夜どまりの旅館式になってしまった。
 一利一害、まことに已《や》むを得ないのであろう。

     四

 万事の設備不完全なるは、一々数え立てるまでもないが、肝腎の風呂場とても今日のようなタイル張りや人造石の建築は見られない。どこの風呂場も板張りである。普通の銭湯とちがって温泉であるから、板の間がとかくにぬらぬらする。近来は千人風呂とかプールとか唱えて、競って浴槽を大きく作る傾きがあるが、むかしの浴槽はみな狭い。畢竟《ひっきょう》、浴客の少なかった為でもあろうが、どこの浴槽も比較的に狭いので、多人数がこみ合った場合には頗《すこぶ》る窮屈であった。
 電燈のない時代は勿論、その設備が出来てからでも、地方の電燈は電力が十分でないと見えて、夜の風呂場などは濛々《もうもう》たる湯烟《ゆげ》にとざされて、人の顔さえもよく見えないくらいである。まして電燈のない温泉場で、うす暗いランプのひかりをたよりに、夜ふけの風呂などに入っていると、山風の声、谷川の音、なんだか薄気味の悪いように感じられることもあった。今日でも地方の山奥の温泉場などへ行けば、こんなところが無いでもないが、以前は東京近傍の温泉場も皆こんな有様であったのであるから、現在の繁華に比較して実に隔世の感に堪えない。したがって、昔から温泉場には怪談が多い。そのなかでやや異色のものを左に一つ紹
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