大なるは尺を越えたのもある。
「半江紅樹売[#二]鱸魚[#一]」は王漁洋《おうぎょよう》の詩である。夕陽村落、楊の深いところに蟹を売っているのも、一種の詩料になりそうな画趣で、今も忘れない。[#地付き](明治37・10)
(七)三条大橋
京は三条のほとりに宿った。六月はじめのあさ日は鴨川《かもがわ》の流れに落ちて、雨後の東山《ひがしやま》は青いというよりも黒く眠っている。
このあたりで名物という大津《おおつ》の牛が柴車《しばぐるま》を牽《ひ》いて、今や大橋を渡って来る。その柴の上には、誰《た》が風流ぞ、むらさきの露のしたたる菖蒲の花が挟んである。
紅い日傘をさした舞妓《まいこ》が橋を渡って来て、あたかも柴車とすれ違ってゆく。
所は三条大橋、前には東山、見るものは大津牛、柴車、花菖蒲、舞妓と絵日傘――京の景物はすべてここに集まった。[#地付き](明治42・6)
(八)木蓼
信濃《しなの》の奥にふみ迷って、おぼつかなくも山路をたどる夏のゆうぐれに、路ばたの草木の深いあいだに白点々、さながら梅の花の如きを見た。
後に聞けば、それは木蓼《またたび》の花だという。猫にまたたびの諺《ことわざ》はかねて聞いていたが、その花を見るのは今が初めであった。
天地|蒼茫《そうぼう》として暮れんとする夏の山路に、蕭然《しょうぜん》として白く咲いているこの花をみた時に、わたしは云い知れない寂しさをおぼえた。[#地付き](大正3・8)
(九)鶏
秋雨《あきさめ》を衝《つ》いて箱根《はこね》の旧道を下《くだ》る。笈《おい》の平《たいら》の茶店に休むと、神崎与五郎《かんざきよごろう》が博労《ばくろう》の丑五郎《うしごろう》に詫《わび》証文をかいた故蹟という立て札がみえる。
五、六日まえに修学旅行の学生の一隊がそこに休んで、一羽の飼い鶏をぬすんで行ったと、店のおかみさんが甘酒を汲みながら口惜《くや》しそうに語った。
「あいつ泥坊だ。」と、三つばかりの男の児が母のあとに付いて、まわらぬ舌で罵《ののし》った。この児に初めて泥坊という詞《ことば》を教えた学生らは、今頃どこの学校で勉強しているであろう。[#地付き](大正10・10)
(十)山蛭
妙義の山をめぐるあいだに、わたしは山蛭《やまびる》に足を吸われた。いくら洗っても血のあとが消えない。ただ洗っても消えるものでない。水を口にふくんで、所謂《いわゆる》ふくみ水にして、それを手拭か紙に湿《しめ》して拭き取るのが一番いいと、案内者が教えてくれた。
蛭に吸われた旅の人は、妙義の女郎のふくみ水で洗って貰ったのですと、かれは昔を偲び顔にまた云った。上州一円は明治二十三年から廃娼を実行されているのである。
雨のように冷たい山霧は妙義の町を掩って、そこが女郎屋の跡だというあたりには、桑の葉が一面に暗くそよいでいた。[#地付き](大正3・8)
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温泉雑記
一
ことしの梅雨も明けて、温泉場繁昌の時節が来た。この頃では人の顔をみれば、この夏はどちらへお出《い》でになりますかと尋《たず》ねたり、尋ねられたりするのが普通の挨拶になったようであるが、私たちの若い時――今から三、四十年前までは決してそんなことは無かった。
勿論《もちろん》、むかしから湯治にゆく人があればこそ、どこの温泉場も繁昌していたのであるが、その繁昌の程度が今と昔とはまったく相違していた。各地の温泉場が近年いちじるしく繁昌するようになったのは、何と云っても交通の便が開けたからである。
江戸時代には箱根の温泉まで行くにしても、第一日は早朝に品川《しながわ》を発《た》って程ヶ谷《ほどがや》か戸塚《とつか》に泊まる、第二日は小田原《おだわら》に泊まる。そうして、第三日にはじめて箱根の湯本《ゆもと》に着く。但しそれは足の達者な人たちの旅で、病人や女や老人の足の弱い連れでは、第一日が神奈川《かながわ》泊まり、第二日が藤沢《ふじさわ》、第三日が小田原、第四日に至って初めて箱根に入り込むというのであるから、往復だけでも七、八日はかかる。それに滞在の日数を加えると、どうしても半月以上に達するのであるから、金と暇とのある人びとでなければ、湯治場《とうじば》めぐりなどは容易に出来るものではなかった。
江戸時代ばかりでなく、明治時代になって東海道線の汽車が開通するようになっても、まず箱根まで行くには国府津《こうづ》で汽車に別れる。それから乗合いのガタ馬車にゆられて、小田原を経て湯本に着く。そこで、湯本泊まりならば格別、さらに山の上へ登ろうとすれば、人力車か山駕籠に乗るのほかはない。小田原電鉄が出来て、その不便がやや救われたが、それとても国府津、湯本間だけの交通にとどまって
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