た。近所の宿でも三味線の音がきこえる。今夜はひどく賑やかな晩である。
 十時入浴して座敷に帰ると、桂川も溢《あふ》れるかと思うような大雨となった。[#地付き](掲載誌不詳、『十番随筆』所収)
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春の修善寺


 十年ぶりで三島《みしま》駅から大仁《おおひと》行きの汽車に乗り換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場《だいば》駅附近を過ぎると、此処《ここ》らももう院線の工事に着手しているらしく、路ばたの空地《あきち》に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに顫《ふる》えている小さい竹藪は、折りからの強い西風にふき煽《あお》られて、今にも折れるかとばかりに撓《たわ》みながら鳴っている。広い桑畑には時どき小さい旋風をまき起して、黄龍のような砂の渦が汽車を目がけてまっしぐらに襲って来る。
 このいかにも暗い、寒い、すさまじい景色を窓から眺めながら運ばれてゆく私は、とても南の国へむかって旅をしているという、のびやかな気分にはなれなかった。汽車のなかに沼津《ぬまづ》の人が乗りあわせていて、三、四年まえの正月に愛鷹丸《あしたかまる》が駿河《するが》湾で沈没した当時の話を聞かせてくれた。その中にこんな悲しい挿話があった。
 沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田《しもだ》に潜伏していたが、ある時なにかの動機から翻然悔悟《ほんぜんかいご》した。その動機はよく判らないが、理髪店へ行って何かの話を聞かされたのらしいと云う。かれはすぐに下田の警察へ駆け込んで過去の罪を自首したが、それはもう時効《じこう》を経過しているので、警察では彼を罪人として取扱うことが出来なかった。かれは失望して沼津へ帰った。それからだんだん聞き合せると、当時の被害者はとうに世を去ってしまって、その遺族のゆくえも判らないので、彼はいよいよ失望した。
 元来、彼は沼津の生まれではなかった――その出生地をわたしは聞き洩らした――せめては故郷の菩提寺に被害者の石碑を建立《こんりゅう》して、自分の安心《あんじん》を得たいと思い立って、その後一年ほどは一生懸命に働いた。そうして、幾らかの金を作った。彼はその金をふところにしてかの愛鷹丸に乗り込むと、駿河の海は怒って暴《あ》れて、かれを乗せた愛鷹丸はヨナ(旧約聖書の中の予言者)を乗せた船のように、ゆれて傾いた。しかも、罪ある人ばかりでなく、乗組みの大勢をも併せて海のなかへ投げ落してしまった。彼は悪魚の腹にも葬られずに、数時間の後に引揚げられたが、彼はその金を懐ろにしたままで凍え死んでいた。
 これを話した人は、彼の死はその罪業《ざいごう》の天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりであった。天はそれほどに酷《むご》いものであろうか――わたしは暗い心持でこの話を聴いていた。
 南条《なんじょう》駅を過ぎる頃から、畑にも山にも寒そうな日の影すらも消えてしまって、ところどころにかの砂烟《すなけむ》りが巻きあがっている。その黄いろい渦が今は仄白《ほのじろ》くみえるので、あたりがだんだんに薄暗くなって来たことが知られた。汽車の天井には旧式な灯の影がおぼつかなげに揺れている。この話が済むと、その人は外套《がいとう》の袖をかきあわせて、肩をすくめて黙ってしまった。私も黙っていた。
 三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗い佗《わび》しい旅であった。ゆき着いた大仁の町も暗かった。寒い風はまだ吹きやまないで、旅館の出迎えの男どもが振り照らす提灯の灯《ひ》のかげに、乗合馬車の馬のたてがみの顫《ふる》えて乱れているのが見えた。わたしは風を恐れて自動車に乗った。

 修善寺の宿につくと、あくる日はすぐに指月ヶ岡にのぼって、頼家の墓に参詣した。わたしの戯曲「修禅寺物語」は、十年前の秋、この古い墓のまえに額《ぬか》づいた時に私の頭に湧き出した産物である。この墓と会津《あいづ》の白虎隊の墓とは、わたしに取って思い出が多い。その後、私はどう変ったか自分にはよく判らないが、頼家公の墓はよほど変っていた。
 その当時の日記によると、丘の裾には鰻屋《うなぎや》が一軒あったばかりで、丘の周囲にはほとんど人家がみえなかった。墓は小さい堂のなかに祀《まつ》られて、堂の軒には笹龍胆《ささりんどう》の紋を染めた紫の古びた幕が張り渡されていて、その紫の褪《さ》めかかった色がいかにも品のよい、しかも寂しい、さながら源氏の若い将軍の運命を象徴するかのように見えたのが、今もありありと私の眼に残っている。ところが、今度かさねて来てみると、堂はいつの間にか取払われてしまって、懐かしい紫の色はもう尋《たず》ねるよすがもなかった。なんの掩《おお》いをも持た
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