として小粋なところが、普通の商人《あきんど》とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人がたくさんあった。
これもそれと似寄りの話で、やはり十七年の秋と思う。わたしが、父と一緒に四谷《よつや》へ納涼《すずみ》ながら散歩にゆくと、秋の初めの涼しい夜で、四谷伝馬町《よつやてんまちょう》の通りには幾軒の露店《よみせ》が出ていた。そのあいだに筵《むしろ》を敷いて大道《だいどう》に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻《しき》りに字を書いていた。今日では大道で字を書いていても、銭《ぜに》を呉れる人は多くあるまいと思うが、その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許《いくら》かの銭を置いて行ったものである。
わたしらも其の前に差しかかると、うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透かして視《み》た父は、一|間《けん》ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人にやって来いと命じ、かつ遣《や》ったらば直《す》ぐに駈けて来いと注意された。乞食同様の男に二十銭はちっと多過ぎると思ったが、云わるるままに札《さつ》を掴《つか》んでその店先へ駈けて行き、男の前に置くや否《いな》や一散《いっさん》に駈け出した。これに就いては、父はなんにも語らなかったが、おそらく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。
この男を見た時に、「霜夜鐘《しものよのかね》」の芝居に出る六浦《むつら》正三郎というのはこんな人だろうと思った。その時に彼は半紙に向って「……茶立虫《ちゃたてむし》」と書いていた。上の文字は記憶していないが、おそらく俳句を書いていたのであろう。今日でも俳句その他で、茶立虫という文字を見ると、夜露の多い大道に坐って、茶立虫と書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。
長唄の師匠
元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋《きねや》お路久《ろく》という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花《はな》さんと云うのが評判の美人であった。この界隈《かいわい》の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古にかよった。三宅花圃《みやけかほ》女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃のコレラで死んでしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家ことごとく離散して、その跡は今や阪川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳屋、おのずからなる世の変化を示しているのも不思議である。
お染風
この春はインフルエンザが流行した。
日本で初めて此の病いがはやり出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗《しょうけつ》になった。われわれは其の時初めてインフルエンザという病いを知って、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云う噂を聞いた。しかし其の当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風《そめかぜ》と云っていた。なぜお染という可愛らしい名をかぶらせたかと詮議《せんぎ》すると、江戸時代にもやはりこれによく似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうと、或る老人が説明してくれた。
そこで、お染という名を与えた昔の人の料簡《りょうけん》は、おそらく恋風と云うような意味で、お染が久松《ひさまつ》に惚れたように、すぐに感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染に限らない。お夏《なつ》でもお俊《しゅん》でも小春《こはる》でも梅川《うめがわ》でもいい訳であるが、お染という名が一番|可憐《かれん》らしくあどけなく聞える。猛烈な流行性をもって往々に人を斃《たお》すような此の怖るべき病いに対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗《すこぶ》るおもしろい対照である、さすがに江戸っ子らしいところがある。しかし、例の大《おお》コレラが流行した時には、江戸っ子もこれには辟易《へきえき》したと見えて、小春とも梅川とも名付け親になる者がなかったらしい。ころり[#「ころり」に傍点]と死ぬからコロリだなどと知恵のない名を付けてしまった。
すでに其の病いがお染と名乗る以上は、これに※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]《よ》りつかれる患者は久松でなければならない。そこで、お染の闖入《ちんにゅう》を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいと云うことになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論《もちろん》、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として、昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽《あお》って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼り付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
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