阿母さんは、鬼ばばァと謳《うた》われながら死んだ。清元の上手な徳さんもお玉さんも、不幸な母と同じ路をあゆんでゆくらしく思われた。取り分けてお玉さんは可哀そうでならなかった。母は鬼婆、娘は狂女、よくよく呪われている母子《おやこ》だと思った。
 お玉さんは一人も友達をもっていなかったが、私の知っているところでは徳さんには三人の友達があった。一人は地主の長左衛門《ちょうざえもん》さんで、もう七十に近い老人であった。格別に親しく往来をする様子もなかったが、徳さんもお玉さんもこの地主さまにはいつも丁寧に頭をさげていた。長左衛門さんの方でもこの兄妹の顔をみれば打ち解けて話などをしていた。
 もう一人は上田《うえだ》屋という貸本屋の主人であった。上田屋は江戸時代からの貸本屋で、番町《ばんちょう》一円の屋敷町を得意にして、昔はなかなか繁昌したものだと伝えられている。わたしが知ってからでも、土蔵付きの大きい角店で、見るからに基礎のしっかりとしているらしい家構えであった。わたしの家でも此処《ここ》からいろいろの小説などを借りたことがあった。わたしが初めて読んだ里見八犬伝もここの本であった。活版本がだんだんに行なわれるに付けて、むかしの貸本屋もだんだんに亡びてしまうので、上田屋もとうとう見切りをつけて、日清戦争前後に店をやめてしまった。しかしほかにも家作《かさく》などをもっているので、店は他人にゆずって、自分たちは近所でしもた家[#「しもた家」に傍点]暮らしをすることになった。ここの主人ももう六十を越えていた。徳さんの兄妹は時々ここへ遊びに行くらしかった。もう一人はさっき湯で逢った建具屋のおじいさんであった。この建具屋の店にも徳さんが腰をかけている姿を折りおりに見た。
 こう列べて見渡したところで、徳さんの友達には一人も若い人はなかった。地主の長左衛門さんも、上田屋の主人も、徳さんとほとんど親子ほども歳が違っていた。建具屋の親方も十五、六の歳上であった。したがって、これらの老いたる友達は、頼りない徳さんをだんだんに振り捨てて、別の世界へ行ってしまった。上田屋の主人が一番さきに死んだ。長左衛門さんも死んだ。今生き残っているのは建具屋のおじいさん一人であった。

     三

 わたしの家《うち》では父が死んだのちに、おなじ路地のなかで南側の二階家にひき移って、わたしの家の水口《みずぐち》がお玉さんの庭の板塀と丁度むかい合いになった。わたしの家の者が徳さんと顔を見合せる機会が多くなった。それでも両方ながら別に挨拶もしなかった。その時はわたしが徳さんの清元を聴いてからもう四、五年も過ぎていた。
 その年の秋に強い風雨《あらし》があって、わたしの家の壁に雨漏りの汚点《しみ》が出た。たいした仕事でもないから近所の人に頼もうと云うことになって、早速徳さんを呼びにやると、徳さんは快《こころよ》く来てくれた。多年近所に住んでいながら、わたしの家で徳さんに仕事を頼むのはこれが初めてであった。わたしはこの時はじめて徳さんと正面にむき合って、親しく彼と会話を交換《かわ》したのであった。
 徳さんはもう四十を三つ四つ越えているらしかった。髪の毛の薄い、色の蒼黒い、眼の嶮《けわ》しい、頤《あご》の尖《とが》った、見るから神経質らしい男で、手足は職人に不似合いなくらいに繊細《かぼそ》くみえた。紺の匂いの新しい印半纏をきて、彼は行儀よくかしこまっていた。私から繕《つくろ》いの注文をいちいち聞いて、徳さんは丁寧に、はきはきと答えた。
「あんな人がなぜ近所と折合いが悪いんだろう。」
 徳さんの帰ったあとで、家内の者はみんな不思議がっていた。あくる日は朝早くから仕事に来て、徳さんは一日黙って働いていた。その働き振りのいかにも親切なのが嬉しかった。今どきの職人にはめずらしいと家内の評判はますますよかった。多寡が壁の繕いであったから、仕事は三日ばかりで済んでしまった。
 徳さんは勘定を受取りにくる時に、庭の青柿の枝をたくさん切って来てくれて、「渋くってとても食べられません、花活けへでもお挿しください。」と云った。
 なるほど粒は大きいが渋くって食えなかった。わたしは床の間の花瓶に挿した。
「妹はこの頃どんな塩梅《あんばい》ですね。」と、そのとき私はふいと訊《き》いてみた。
「お蔭さまでこの頃はだいぶ落ちついているようですが、あいつのこってすから何時あばれ出すか知れやあしません。しかしあいつも我儘《わがまま》者ですから、なまじっかの所へ嫁なんぞに行って苦労するよりも、ああやって家で精いっぱい威張り散らして終る方が、仕合せかも知れませんよ。」と、徳さんは寂しく笑った。「おふくろも丁度あんな人間ですから、みんな血を引いているんでしょうよ。」
 それからだんだんに話してみると、徳さんは妹のこと
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