は下駄を突っかけて、そそくさと出て行ってしまった。午後二時頃の銭湯は広々と明るかった。狭い庭には縁日で買って来たらしい大きい鉢の梅が、硝子戸《ガラスど》越しに白く見えた。
着物をぬいで風呂場へゆくと、流しの板は白く乾いていて、あかるい風呂の隅には一人の若い男の頭がうしろ向きに浮いているだけであった。すき透るような新しい湯は風呂いっぱいに漲《みなぎ》って、輪切りの柚《ゆず》があたたかい波にゆらゆらと流れていた。窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、陽炎《かげろう》のように立ち迷う湯気のなかに、黄いろい木実《このみ》の強い匂いが籠《こも》っているのも快《こころよ》かった。わたしはいい心持になって先ずからだを湿《しめ》していると、隅の方に浮いていた黒い頭がやがてくるりと振り向いた。
「今日《こんにち》は。」
「押し詰まってお天気で結構です。」と、私も挨拶した。
彼は近所の山口《やまぐち》という医師の薬局生であった。わたしと別に懇意でもないが、湯屋なじみで普通の挨拶だけはするのであった。建具屋のおじいさんが書生さんと云ったのはこの男で、左官屋の徳さんはおそらく山口医師の診察を受けていたのであろうと私は推量した。
「左官屋の徳さんが死んだそうですね。」と、わたしもやがて風呂にはいって、少し熱い湯に顔をしかめながら訊《き》いた。
「ええ、けさ七時頃に……。」
「あなたのところの先生に療治して貰っていたんですか。」
「そうです。慢性の腎臓炎でした。わたしのところへ診察を受けに来たのは先月からでしたが、何でもよっぽど前から悪かったらしいんですね。先生も最初からむずかしいと云っていたんですが、おととい頃から急に悪くなりました。」
「そうですか。気の毒でしたね。」
「なにしろ、気の毒でしたよ。」
鸚鵡《おうむ》返しにこんな挨拶をしながら、薬局生はうずたかい柚を掻きわけて流し場へ出た。それから水船《みずぶね》のそばへたくさんの小桶をならべて、真赤《まっか》に茹《ゆで》られた胸や手足を石鹸の白い泡に埋めていた。それを見るともなしに眺めながら、わたしはまだ風呂のなかに浸《ひた》っていた。
表には師走《しわす》の町らしい人の足音が忙がしそうにきこえた。冬至《とうじ》の獅子舞の囃子の音も遠くひびいた。ふと眼をあげて硝子窓の外をうかがうと、細い路地を隔てた隣りの土蔵の白壁のうえに冬の空は青々と高く晴れて、下界のいそがしい世の中を知らないように鳶が一羽ゆるく舞っているのが見えた。こういう場合、わたしはいつものんびりした心持になって、何だかぼんやりと薄ら眠くなるのが習いであったが、きょうはなぜか落ちついた気分になれなかった。徳さんの死ということが、私の頭をいろいろに動かしているのであった。
「それにしても、お玉さんはどうしているだろう。」
わたしは徳さんの死から惹《ひ》いて、その妹のお玉さんの悲しい身の上をも考えさせられた。
お玉さんは親代々の江戸っ児で、阿父《おとっ》さんは立派な左官の棟梁《とうりょう》株であったと聞いている。昔はどこに住んでいたか知らないが、わたしが麹町の元園町に引っ越して来た時には、お玉さんは町内のあまり広くもない路地の角に住んでいた。わたしの父はその路地の奥のあき地に平家《ひらや》を新築して移った。お玉さんの家は二階家で、東の往来にむかった格子作りであった。あらい格子の中は広い土間になっていて、そこには漆喰《しっくい》の俵や土舟《つちぶね》などが横たわっていた。住居の窓は路地のなかの南にむかっていて、住居につづく台所のまえは南から西へ折りまわした板塀に囲まれていた。塀のうちには小さい物置と四、五坪の狭い庭があって、庭には柿や桃や八つ手のたぐいが押しかぶさるように繁り合っていた。いずれも庭不相当の大木であった。二階はどうなっているか知らないが、わたしの記憶しているところでは、一度も東向きの窓を明けたことはなかった。北隣りには雇い人の口入屋《くちいれや》があった。どういうわけか、お玉さんの家《うち》とその口入屋とはひどく仲が悪くって、いつも喧嘩が絶えなかった。
わたしが引っ越して来た頃には、お玉さんの阿父さんという人はもう生きていなかった。阿母《おっか》さんと兄の徳さんとお玉さんと、水入らずの三人暮らしであった。
阿母さんの名は知らないが、年の頃は五十ぐらいで、色の白い、痩形で背のたかい、若いときには先ず美《い》い女の部であったらしく思われる人であった。徳さんは二十四、五で、顔付きもからだの格好も阿母さんに生き写しであったが、男としては少し小柄の方であった。それに引きかえて妹のお玉さんは、眼鼻立ちこそ兄さんに肖《に》ているが、むしろ兄さんよりも大柄の女で、平べったい顔と厚ぼったい肉とをもっていた。年は二十歳《はたち》ぐらいで
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