も知れない。それらに魂はありながら、みんな声さえも立てないで、静かに救い出される日を待っているのかも知れない。
 乗合いの人たちも黙っている。わたしも黙っている。案内者はもう馴れ切ったような口調で高々と説明しながら行く。幌《ほろ》のない自動車の上には暑い日が一面に照りつけて、眉のあたりには汗が滲《にじ》んでくる。死んだ町には風すらも死んでいると見えて、きょうはそより[#「そより」に傍点]とも吹かない。散らばっている石や煉瓦を避《よ》けながら、狭い路を走ってゆく自動車の前後には白い砂けむりが舞いあがるので、どの人の帽子も肩のあたりも白く塗られてしまった。
 市役所も劇場もその前づらだけを残して、内部はことごとく頽れ落ちている。大きい寺も伽藍堂《がらんどう》になってしまって、正面の塔に据え付けてあるクリストの像が欠けて傾いている。こうした古い寺には有名な壁画などもたくさん保存されていたのであろうが、今はどうなったか判るまい。一羽の白い鳩がその旧蹟を守るように寺の門前に寂しくうずくまっているのを、みんなが珍しそうに指さしていた。
 町を通りぬけて郊外らしいところへ出ると、路の両側はフランス特有のブルヴァーになって、大きい栗の木の並木がどこまでも続いている。栗の花はもう散り尽くして、その青い葉が白い土のうえに黒い影を落している。木の下には雛芥子《ひなげし》の紅い小さい花がしおらしく咲いている。ここらへ来ると、時どきは人通りがあって、青白い夏服をきた十四、五の少女が並木の下を俯向《うつむ》きながら歩いてゆく。かれは自動車の音におどろいたように顔をあげると、車上の人たちは帽子を振る。少女は嬉しそうに微笑《ほほえ》みながら、これも頻《しき》りにハンカチーフを振る。砂煙が舞い上がって、少女の姿がおぼろになった頃に、自動車も広い野原のようなところに出た。
 戦争前には畑になっていたらしいが、今では茫々たる野原である。原には大きい塹壕《ざんごう》のあとが幾重にも残っていて、ところどころには鉄条網も絡み合ったままで光っている。立木はほとんどみえない。眼のとどく限りは雛芥子の花に占領されて、血を流したように一面に紅い。原に沿うた長い路をゆき抜けると、路はだんだんに登り坂になって、石の多い丘の裾についた。案内者はここが百八高地というのであると教えてくれた。
 自動車から卸《おろ》されて、思い
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