おもて》を着けていた。袴は普通のもので、めいめいの単衣《ひとえもの》を袒《はだ》ぬぎにして腰に垂れ、浅黄または紅《あか》で染められた唐草模様の襦袢《じゅばん》(?)の上に、舞楽の衣装のようなものを襲《かさ》ねていた。頭には黒または唐黍《もろこし》色の毛をかぶっていた。腰には一本の塗り鞘《ざや》の刀を佩《さ》していた。
この四人が野蛮人の舞踊のように、円陣を作って踊るのである。笛と太鼓はほとんど休みなしに囃《はや》しつづける。踊り手も休み無しにぐるぐる廻っている。しまいには刀を抜いて、飛び違い、行き違いながら烈しく踊る。単に踊ると云っては、詞《ことば》が不十分であるかも知れない。その手振り足振りは頗《すこぶ》る複雑なもので、尋常一様のお神楽のたぐいではない。しかも其の一挙手一投足がちっとも狂わないで、常に楽器と同一の調子を合わせて進行しているのは、よほど練習を積んだものと見える。服装と云い、踊りと云い、普通とは変って頗る古雅《こが》なものであった。
かたわらにいる土地の人に訊くと、あれは飯野川《いいのがわ》の踊りだと云う。飯野川というのは此の附近の村の名である。要するに舞楽を土台にして、これに神楽と盆踊りとを加味したようなものか。わたしは塩竈へ来て、こんな珍しいものを観たのを誇りたい。
私は口をあいて一時間も見物していた。踊り手もまた息もつかずに踊っていた。笛吹けども踊らぬ者に見せてやりたいと私は思った。
孔雀船の舟唄
塩竈から松島へむかう東京の人々は、鳳凰《ほうおう》丸と孔雀《くじゃく》丸とに乗せられた。われわれの一行は孔雀丸に乗った。
伝え聞く、伊達政宗は松島の風景を愛賞して、船遊びのために二|艘《そう》の御座船《ござぶね》を造らせた。鳳凰丸と孔雀丸とが即《すなわ》ちそれである。風流の仙台|太守《たいしゅ》は更に二十余章の舟唄を作らせた。そのうちには自作もあると云う。爾来、代々の藩侯も同じ雛型《ひながた》に因って同じ船を作らせ、同じ海に浮かんで同じ舟唄を歌わせた。
われわれが今度乗せられた新しい二艘の船も、むかしの雛型に寸分たがわずに造らせたものだそうで、ただ出来《しゅったい》を急いだ為に船べりに黒漆《こくしつ》を施すの暇がなかったと云う。船には七人の老人が羽織袴で行儀よく坐っていた。わたしも初めはこの人々を何者とも知らなかった、また別に
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