ものだ。わたしに任せて置け」
「八橋さんのところへでもお出でになりますか」と、お光はそっと訊いた。差しあたってはそれよりほかに工夫はあるまいと彼女は思いついた。
 栄之丞は黙って考えていた。
「もし兄さまからお話しがなさりにくければ、わたくしから手紙でもあげましょうか」
「それにも及ぶまい。どっちにしても何とか埒をあけるからくよくよ[#「くよくよ」に傍点]するな。胸に屈託《くったく》があると粗※[#「※」は「つつみがまえ+夕」、読みは「そう」、115−9]をする。奉公を専一に気をつけろ」
 春の寒い風が兄妹のそそけた鬢《びん》を吹いて通った。
 妹に別れて栄之丞は南の方へ小半町《こはんちょう》も歩き出したが、彼の足はにぶり勝ちであった。まったくお光の言う通り、いくら立派そうな口を利いても今の栄之丞に十両の才覚はとても出来なかった。彼は吉原へ行くよりほかはないと思いながらも、その決心が付かなかった。つとめて八橋と遠ざかりたいと念じている矢先きへ、又こんな新しい関係を結び付けて、逃げることのできない因果のきずなに、いよいよ自分のからだを絞めつけられるのに堪えなかった。
「ほかに工夫はないか知ら」と、彼は歩きながら考えた。
 ちっとばかりの親類は、みんなもう出入りの叶わないようになっていた。堀田原の主人とても小身で、余事はともあれ、金銭づくの相談相手にならないのは判り切っていた。吉原へ行くよりほかはない、いやでも八橋のところへ行って頼むよりほかはない。栄之丞も絶体絶命でそう決心した。
 去年の暮れに次郎左衛門が不意に押しかけて来て、八橋が身請けのことを頼んで行った。その場は栄之丞もおとなしく受け合ったが、相手の要求があまり手前勝手で、むしろ自分を踏みつけにしたような仕方であるので、彼は内心不満であった。二つには八橋に逢いに行くということが億劫《おっくう》であるので、栄之丞は自分から進み出てその話を取り結ぼうとする気にもなれなかった。そのままに捨てても置かれまいと思いながらも、松の内は無論くるわへは行かれなかった。松を過ぎても一日延ばしにきょうまで投げやって置いたのであった。
 思えばいっそいい機会であるかも知れない。この話を兼ねて八橋に逢いに行こうと彼は決心した。彼はすぐに向きを変えて、寺の多い町から山谷《さんや》へぬけて、まっすぐに廓へ急いで行った。
「栄之丞さん、お久しい。どうしなんした」
 新造の浮橋がすぐに出て来たが、いつものように八橋の座敷へは通さないで、別の名代部屋《みょうだいべや》へ案内した。誰か客が来ているのだろうと栄之丞は想像した。彼をそこに待たせておいて、浮橋はそそくさと出て行った。
「どっちの話から先きにしようか」と、栄之丞は思案した。問題の重い軽いをはかりにかけると、どうしても身請けの話の方をさきに切り出さなければならなかった。彼はそのつもりで待っていたが、八橋は容易に顔を見せなかった。しかし、ほかの客が来ている以上は座敷の都合もある。彼はこれまでにもたびたびこういう経験があるので、貼りまぜの金屏風の絵などを眺めながらいつまでも気長に待っていると、浮橋から報《しら》せたと見えて、やがて茶屋の女が来た。栄之丞が酒を飲まないことを知っていながらも、型ばかりの酒や肴を運んで来た。
「八橋の座敷には誰が来ている。立花屋の客かえ」と、栄之丞は訊いた。
「あい、そうでござります」と、女は答えた。
 栄之丞と次郎左衛門とは茶屋が違っていた。
 立花屋の客というのは、もしや次郎左衛門ではないかと栄之丞は直ぐに胸にうかんだ。次郎左衛門が来ているとすれば、挨拶をしないのも義理がわるい。しかし彼は次郎左衛門と顔を合わせたくなかった。次郎左衛門が来合せている時に、八橋にむかって身請けの話を言い出すのも妙でないとも思った。
 栄之丞はいっそ八橋に逢わずに帰ろうかとも考えた。しかしまた出直して来るのも面倒であった。身請けの話はともかくも、かの十両の問題はどうしてもきょうのうちに解決して置きたかったので、彼は考え直してまた根《こん》よく待っていた。
 八橋はなかなか来なかった。栄之丞よりも茶屋の女が待ちかねて、新造のところへ催促に行った。催促されて八橋はようよう出て来たが、風邪をひいて頭痛がするとかいって、彼女はひどく不気色らしい顔をしていた。
「お客は佐野の大尽かえ」と、栄之丞が念のためにまた訊いた。
「いいえ」
 その返事を聞いて栄之丞も少し安心した。杯のとりやりを型ばかりした後に、茶屋の女を遠ざけて栄之丞は早速本題にはいった。
「佐野の客からこのごろ何か身請けの話でもあったかえ」
「いいえ、なんにも知りいせん」と、八橋は冷やかに答えた。
「実は旧冬二十五日の晩に、わたしのところへその相談に来たんだが……」
 八橋は思いも付かないこと
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