ては、どうしても男らしい態度を取り得なかった。
今夜は酒を飲んでもいい心持ちに酔えなかった。ほかに二、三人の客がはいって来て、何かいそがしそうに話していたが、それも次郎左衛門の耳へははいらなかった。彼は自分でも不思議なくらいに今夜は寂しく感じた。それはなぜだか判らなかった。
彼は子供の時のことをふと思い出した。それは歳暮にでも持って行くらしい紙鳶《たこ》をぶらさげた職人の客がはいって来たからであった。彼は故郷の広い野原で紙鳶をあげた昔の春がそぞろに恋しくなった。その頃の喧嘩友達の名なども急に思い出された。
「治六がいなくなったせいではない」
しいてそう思いながらも、やはり治六に離れたのが寂しかった。宿の亭主も自分の味方ではないらしかった。そんなことを考えると、彼は我ながら意気地がないと思うほどに寂しかった。いつもの彼の魂はどこへか抜け出してしまったように思われた。碌に酔いもしないで茶漬屋を出た彼は、これからどうしようかとまた迷った。吉原へ行くのはどうも気おくれがした。さりとてこのまま宿屋へ帰る気にもなれなかった。彼はただ無暗に寂しかった。この遣る瀬ない寂しさを打ち消すには、理屈も人情もない、なにか非常手段を取らなければならないように思われた。
「栄之丞の所へ行って見ようか」
八橋の情夫《おとこ》という宝生栄之丞に逢って、八橋が身請けのことを掛け合って見たいような気になって、彼はまっすぐに大音寺前の方へ足を向けた。田舎みちに馴れている彼は、暗い田圃《たんぼ》を行くのはさのみ苦にもならなかった。彼はまばらな星明かりを頼りにして、方角をよく知らない田圃みちをさまよいながら、どうにかこうにか大音寺前まで辿《たど》って行った。
八
思いもつかない客におそわれて、栄之丞はどぎまぎしながら挨拶した。
「こんな所がよくお判りになりました」
「ここらだろうと思ってうろうろしていると、お前さんらしい謡《うた》いの声がきこえましたので……」と、次郎左衛門は笑いながら坐った。
栄之丞も無理に笑顔を粧《つく》った。
「お独りですか」と、彼はまた訊いた。
「妹がおりましたが、一両日前にほかへやりました」と、栄之丞は火鉢に粉炭《こなずみ》をつぎながら答えた。
「おかたづきになりましたか」
「いえ、奉公に出しまして……」と、栄之丞はきまりが悪そうにうつむいた。
思ったよりも侘びしげな暮らしの有様を見て、次郎左衛門は可哀そうになった。大兵庫屋の八橋の情夫はこんなにおちぶれているのかと思うと、彼は可哀そうを通り越して、栄之丞を軽蔑するような心持ちの方が強くなって来た。自分の従弟――八橋はそう言っている――が不自由な暮らしをしているという事は、かねて彼女からも聞かされていたが、まさかこれ程とは思っていなかった。
かすかな火種では容易に火が起らないらしく、栄之丞は破れた扇で頻《しき》りに炭を煽いでいた。
「こっちへ来たらば、一度はお訪ね申そうと思いながら、いつも御無沙汰をしていました。八橋に聞きましたら、この頃はちっとも廓《なか》の方へもお出でがないそうで……」
栄之丞は蒼白い顔を少し紅くした。次郎左衛門が今夜なにしに来たのか、彼は一種の不安に囚われて碌々に返事もできなかった。
「私はこのあいだ雷門でお目にかかってから、ゆうべまで続けて八橋の所へまいりました」と、次郎左衛門はにこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながら言い出した。「今夜も行こうかと思って宿を出ましたが、途中でなんだか寂しくなったので、ふい[#「ふい」に傍点]とこちらへ伺おうと思い立ちました」
吉原へ行くのがなぜさびしいか、それは栄之丞には判らなかった。彼は黙っておとなしく聴いていた。
「奉公人が詰まらないことをしゃべったもんですから、八橋はわたくしに身請けをしてくれと言うのです」
八橋と自分との仲をうすうす覚った彼は、八橋を請け出すについて後日《ごにち》の苦情のないように縁切りの掛け合いに来たのであろうと、栄之丞は推量した。近頃はなるべく八橋と遠ざかるように心がけてはいたものの、彼女が自分には一言の相談もなしに次郎左衛門と身請けの話をすすめているかと思うと、栄之丞は決していい心持ちがしなかった。彼は火をあおいでいる扇の手を休めて、客の方に向き直った。
「ですが、わたくしに請け出されたら、栄之丞さん、八橋はお前さんをどうする気でしょう。いや、お隠しなさるには及びません。お前さんと八橋のことはもう知っています。それでも私はお前さんを正直な善い人だと思っています。わたくしはお前さんと喧嘩をする気にはなれない。いつまでも仲好くおつきあいをしていたいと思っている位です。そこで、お前さんに少し御相談があるんですが、聞いて下さいましょうか」
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